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心に残った言葉

どんな人にも人間として接していこう(株)イエローハット相談役 鍵山 秀三郎

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 感情をむき出しのままで生きている人がこの社会に増えてきました。利己心と利己心とがぶつかり合いますと、すぐに争いごとになったり、大きな事件になったりします。これはこのまま放っておいてはいけない、と常々私は思っています。

 そこで、かつての日本の優れた民族性をもう一度呼び戻し、胸の張れる国にしたい、こう思っているわけですが、もちろん、私一人では何にもできません。しかし、私の思いに共鳴してくださる方々が、この世の中に多くなれば必ず大きな力になると確信しております。 

 私は、今日まで掃除というものに熱心に取り組んで参りました。掃除をすると何が良いのかといいますと、まず、自分の暮らしの環境や職場、あるいは学校をきれいにすると、そこにいる人の心が落ち着いてくる。そして、みんなが自分の周りをきれいにしていけば、社会全体がきれいになっていきます。そうするとみんなの心がきれいになっていくに違いない。私はこういう確信をもって取り組んで参りました。

 一人でコツコツと掃除をしている頃は、冷たい目で見られたりして参りましたけれども、ありがたいことに平成3年に出会った方が、「私も一緒にやりましょう」と手をあげて下さって以来、15年の間にポツポツと私の活動に共鳴をして下さった方が全国に増えて参りました。そして「日本を美しくする会」が誕生しました。その下に、たとえば宮崎県であれば「宮崎掃除に学ぶ会」という会が誕生しております。

 今では国境を越えて、台湾、中国の北京、上海、内モンゴル、青島、桂林、遠くはブラジルのサンパウロ、それからアメリカのニューヨークと、掃除の活動が広がっています。

 かつて私がただ黙々と、時には暗たんたる気持ちになったりしながらやり続けてきたことが、このような社会的な活動になり、世の中に認められるようになったことは、本当に嬉しく思っています。
 

 私は昭和8年生まれで、今満73歳を越えたところです。20歳で東京に出てきた時は、学歴も学力もお金も、何もありませんでした。ただ、あったのは強いこの体と、少々のことではへこたれない忍耐心、この二つだけでした。

 この二つだけを持って20歳の時に上京して以来、53年間、東京で過ごして参りました。
 今日まで、いろんな災難に遭い、時には人に騙されたり、いろんな不運な目に遭ってきましたけど、それでもそういうことに押し潰されないで、今日までやってこれたのは強い忍耐心のお陰だったと思います。

 そこで皆さんには、どんな財産よりも、強い忍耐心を持って頂きたい、これが私の第一の主題でございます。

 この忍耐心を養うにはどうしたらよいか。急に身に着けることはできません。毎日の暮らしの中でちょっとした小さなルールをきちんと守っていくということです。

 たとえば信号でも、深夜とか早朝には全く車が通らない交差点もありますよね。そういう時でも、赤であればちゃんと止まって青になるのを待つ。そういう信念を貫き通して参りますと、忍耐心はだんだん強くなって参ります。

 反対に、これくらいいいじゃないか。車も来ないし、警察もいないし、何も危険はない。赤だけど行ってしまおうと、この小さなルールを破ると、そのたびに忍耐心は弱くなっていきます。
 ですから、小さなルールを甘く見ないことです。これが忍耐心を培うコツでございます。


 私は、昭和36年10月10日、今から45年前に、今のこの仕事を始めました。最初は自転車1台の行商でした。自転車の荷台に商品を積んで遠くまで商いに行っていました。

 体は丈夫でしたから仕事そのものはきつくなかったんですけど、行商というのは辛いこともあります。それは、行った先々で人間扱いされないということでした。本当にもう散々な目に朝から晩まで遭うんです。歓迎されるところは1軒もありません。50軒歩いても、100軒歩いても、「用はないから二度と来るな」と言われるんです。

 その「来るな」って言われたところへまた行きますと、「この間、もう来るなって言ったのにまた来たのか」と、また怒られる。またそれでも行くと今度はホウキの枝で追い出されたり、時にはそこにあったバケツの水を頭から浴びせられたり、そんなことも度々ありました。

 でも私は、ありがたいことにそういうことに耐える力を持っていました。そんな目に遭っても、訪問し続けて、やがて先方さんが望んでいることを私が叶えていくということにも巡り合うようになるんですね。
 まぁ、そんなことから少しずつ仕事の窓口が開いて参りまして、自転車で歩かなくても仕事が入ってくるようになりました。

 そういう体験を通して私が学んだことがあるんですね。それは、どんな人にでも「人として」接していこうということです。このことを私は生涯守ろうと思いました。

 ですから、行商時代、私に冷酷な態度で接した方は私にとっては「先生」なのです。そういう厳しい修行のような日々の中で、本当に親切にしていただいた人もいました。そういう人からは「人間はこうしなければならない」ということを学んだわけです。

 ですから、誰からも私は学ぶことができたのです。

 
(10月18日、「お菓子の日高」創業55周年記念文化講演会にて)


2009年12月28日 15:18


【バックナンバー一面】何でも話を聞いてくれる親しい友達を

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【バックナンバー一面】2006年11月20日号
何でも話を聞いてくれる、親しい友達を持とう
児童精神科医本間博彰氏

 児童精神科医をやっていますが、最近、小学校1、2年生で受診する子どもがとても多くなっています。

 授業時間が45分間ですから、それまでの保育園や幼稚園の生活とはスタイルが違う。
 つまり、新しい世界に踏み込む時というのは問題が出てきやすい。言い換えれば、それは「それ以前の発達に不十分さがあった」ということです。


 私たちの人生は、いくつものライフステージから構成されています。そのライフステージが変わる時、病気になりやすいんですね。女性の場合だと更年期障害や更年期うつ病がそうです。

 更年期は、いろいろな変化が起こる時期です。体の変化も起こってくるし、子どもが親から巣立っていく時期でもあります。子育てに一生懸命であればあるほど、子どもがいなくなると心にぽっかり穴が空いてしまう。この頃から夫婦が接触する時間も多くなる。こういう「新しいステージ」にうまく対応できないと、うつ病などの病気が発生しやすくなるわけです。

 日本の離婚には2つのピークがあります。「結婚して3年目辺り」が一つ目のピークで、二つ目は「初老期」です。

 初老期というのは、会社人間だった夫が退職してずっと家にいるようになります。奥さんは、それまでにたくさんお友だちをつくっていますから、その人たちとの交流もあるし、いろんな活動もある。そこに夫が帰ってきて一日中家にいて、「メシ!」とか言ってるから、「粗大ごみ」扱いにされるわけですね。

 新しいライフステージにうまく対応していくことは、大人にとっても重要な問題です。その変化にうまく対応するためには、次のライフステージに向けて準備をしておくことが大事です。
 

 子ども時代におけるライフステージの一つ目は、赤ちゃんの時代です。

 二つ目は、体の変化が起こってくる小学校5年生ぐらいです。

 この頃の子どもは、「自分って何?」「自分のルーツは何?」「この人たちは本当に自分の親なのかな?」というように自分のアイデンティティーに無意識に向き合うようになります。そして、親を失った話とか、もらい子の話、家出に関心が出てきます。それは全部、「自分のアイデンティティー探し」なんです。

 しばらくすると、それぞれに答えを出していきます。「どうやらこの人たちは本物のお父さんとお母さんみたいだ」とか、「話をしても少しも分かってくれない。やっぱり本当の親じゃないんじゃないか?」とか。

 ですから5、6年生の子で、「随分成長したなぁ」と思える子どもは、「自分のアイデンティティー探し」の壁を超えた子どもだと思います。


 ライフステージの三つ目は、中学2年生頃です。この時期は、ものすごく心の問題が発生しやすい時期です。非行も多くなる。この時期の子どもたちはどんなことに直面しているか?

 心理的な特徴は、直情的な競争心です。「負けたらおしまい」という気持ちがとても強い。

「俺はスポーツが苦手だから、勉強でがんばろう」とか、そういう柔軟性はこの頃にはまだありません。

 「どっちが強いか」「どっちが頭がいいか」と、非行少年同士でも競争します。たとえば、非行グループの中で、腕にたばこの火を押し付けて我慢比べをする「根性焼き」はその典型です。こうした直情的な競争心ゆえに身を壊してしまう時期でもあります。

 だから、「こんな成績じゃダメでしょ!」「いい高校に入れなきゃ」と、子どもを追い詰めていると、子どもたちはいつも緊張感の中で過ごすようになり、学校にもお家にも心の居場所を失います。どこかでリラックスさせ、緊張感を緩めてあげることも必要です。

 心の中に不安や緊張が生まれると、何とかしてそれから逃れようとします。そのコントロールがうまい子もいるし、うまくない子もいる。不登校やひきこもりは、無意識に不安から逃れようとする行動です。親にくっついてきたり、親が手を焼くような問題行動をするのもそのためです。不安定な状態を解消してもらおうと親に接近するんです。


 赤ちゃんは本能的に、不機嫌さとか、イライラとか、さびしさを感じた時、親に身体的にくっつこうとします。これが「愛着行動」です。

 愛着行動を受け入れてもらうことによって、自分が抱えている不安から解放されようとするわけです。

 愛着行動は大人にもあります。でも大人になって、年老いた母親にベタベタくっついたりはしません。大人の愛着行動は「人に話を聞いてもらうこと」です。

 自分で感情をコントロールできないくらいの悲しさやつらさを経験した時には、親しい友だちに話を聞いてもらったりしますよね。

 だから、友だちの多い人は安全なんです。親しい人が多ければ多いほど、いろんな危機的な出来事に遭遇しても救われるチャンスが多くなります。

 子どもでも、いつも友だちから孤立している人は、何か大変な問題に直面した時に、自分の不安をコントロールできなくて潰れやすいです。

 メンタルヘルスの基本は、「自分のサポートネットワークである仲間をどれくらいつくっているか」です。

 「こんなこと言うと笑われるんじゃないか」というような聞きづらい話も聞いてくれる、「ここだけの話なんだけど…」と言いづらいことも話せる、そういうしっかりとした愛着関係を築いていくことが大事なんですね。

 「忙しいから…」と、相手の話を聞くのをやめちゃったり、相手が話す何倍も自分が話してしまうことも、よくやってしまうことです。あるいは、変にアドバイスしてしまったり。でも聞いてるほうは、アドバイスされてもすっきりはしません。

 「ちゃんと聞いてくれた。しっかり聞いてもらえた」と思えるとホッとするものです。「聞く」ということは、とても大事な相手を支援する方法であることを知っておいて下さい。

2009年11月20日 16:18


【バックナンバー一面】日本人が失った大切な「食」

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【バックナンバー一面】2006年11月13日号
食育のすすめ 日本人が失った大切な「食」
服部学園理事長・医学博士服部幸應



 今、日本人は世界一長生きです。特に女性は1985年から21年間、ずっと世界一位です。男性は、世界二位までいったんですけど、今、四位に落ちました。それでもすごいですよね。

 ただ問題があります。長生きは世界一なんですが、「介護されながら」という人が多いんですね。やっぱり「生涯現役」ということが大事で、そのために国もいろいろやってきました。

 その目玉となるのが、昨年できた「食育基本法」という法律です。食から健康を取り戻そうというわけです。

 というのは、今、年間100万人の人が亡くなっているんですが、そのうちの約64・8%が直接的・間接的に、食べ物が原因で亡くなっていることが分かっています。確かに日本は飽食の社会です。豊かになったのはいいのですが、逆に食べ過ぎや欠食で病気になる人が増えているんです。それで政策として「食育」が必要になったというわけです。 

 これは縦断的、横断的にやることが重要です。

 縦断的というのは赤ちゃんからお年寄りまで、それぞれの年齢に合った食育です。横断的というのは、家庭、学校、地域社会での食育です。

 たとえば学校給食。今21%くらいの食材を地場産物のものにしているんですが、これを平成22年までに30%までもっていこう、という計画です。

 生産者の協力も必要です。農林水産業の方々が安心、安全、健康なものを作ってくれないと、消費者に直接影響しますから。

 また、食品加工メーカーの協力も必要です。今いろんな食品が売られていますが、中には怪しいものも多いです。各種メーカーさんの食育に対しての理解と実行が欠かせません。

 それから教育現場。今、中央教育審議会や教育委員会にも食育への積極的な取り組みをお願いしていて、少なくとも中学校までには教科書の中に「食育」が入り、学習指導要領の中に組み込んで、そういう授業をやって欲しいと、お願いしてきました。

 それで、数年後から「食育」を授業の中に加えることになりました。これで日本もかなり変わるはずです。


 今、一番心配しているのは子どもの身体です。

 身体がつくられるのは0歳~20歳までです。20歳が骨密度のピークですから、ちゃんとした食生活を20歳までやっておかないと、太くて、重くて、密度のある骨をつくることができません。

 ところが今、バランス悪い食生活の子が多いでしょ。特に7歳から18歳までは骨が一番成長する時期なんです。この時期にバランスの悪い食生活をしていたらどうなります?

 こんな実験をしました。ラットを100匹ずつ、A、B、Cの3つのグループに分けて飼いました。

 Aのグループには玄米と野菜とお魚を与えました。 Bのグループには白米と野菜、お魚、お肉を与え、Cのグループには白いパン、マーガリン、野菜を少しとベーコンとソーセージ、お肉を与えました。

 2年7ヵ月育てました。人間の年齢で言うと60歳まで育てたことになります。

 まずA。100匹みんな元気。しかも毛のつやがいい。

 Cは、48匹が死亡しました。解剖したらみんな生活習慣病でした。残りの52匹のうち3分の1にも生活習慣病の症状が出てまして、いつ死んでもおかしくない状態でした。あと3分の1がその予備軍で、残りの3分の1がアレルギー疾患。毛が半分ぐらい抜けちゃって、いつもかいているんですよ。

 さぁ、Bです。Bの食生活って、我々の食生活に似てません?

 100匹のうち18匹が死亡。残りの82匹のうち、3分の1が生活習慣病でした。その予備軍が3分の1。残り3分の1は健康でした。

 そして、Aのグループの平均体重を「1」とすると、Bが「1・3」、Cが「2・3」でした。Cは体重が2倍以上になっていました。この実験結果を一つの目安にして欲しいと思います。 
 
要は食生活が重要なんです。特にきちんとした朝食を食べないといけない。

 なぜかと言えば、夜、食べた物が作ったエネルギーが、グリコーゲンという形で肝臓と筋肉に溜め込まれます。約60㌘のエネルギーを溜め込むことができます。

 で、寝ている間に1時間に約5㌘消費します。8時間後には40㌘を消費し、朝には20㌘しか残りません。 なのに朝食を摂らずに出掛けたとします。通学もしくは通勤で10㌘のエネルギーを使います。

 さぁ、職場や学校に着いて仕事、もしくは勉強開始。エネルギーは10㌘しか残っていません。これがどれくらいもつか。若い人ほど代謝がいいから、1時間持たないですね。50分ぐらいでこのエネルギー全部使い果たします。僕ぐらいの年齢だと代謝が悪いので1時間20分ぐらい持ちます。

 子どもは10時ごろにはもう、このグリコーゲンは分解されて血液の中に入って、ブドウ糖に変わります。

 頭を動かすエネルギーは、ブドウ糖以外は受け付けません。グリコーゲンが、ブドウ糖になって血液の中に入ってまた体を動かしたり、脳を動かしたりするわけです。その10㌘は、午前10時になる頃にはもうほとんど脳を動かすことが出来なくなっているわけです。だから集中力は欠け、物事の判断力も落ちます。

 そして、2時限目が体操だとします。まだ体は動きます、エネルギーはないのに。 実はブドウ糖がなくなると途端に中性脂肪がエネルギーになるんです。

 でも中性脂肪はどんなに頑張ってもブドウ糖にはなりません。だから、体は動くけど、脳にはブドウ糖がいかないので頭はぼーっとしているわけです。

 「なぜ朝食を食べないといけないのか」ということを頭に置きながら、そこから食育の大切さをご理解して欲しいと思います。

2009年11月16日 15:46


【バックナンバー一面】栄養面だけでなく食べ方の文化も伝えていかなきゃ

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【バックナンバー一面】2006年11月6日
栄養面だけでなく食べ方の文化も伝えていかなきゃ
ベジタブルティーチャー
久原ルミ子


私は今、ベジフルティーチャーとして、イベントや講演を通して、「野菜や果物をバランスよく食べて健康な体を維持しましょう」という啓発活動を行っています。

 今日のテーマは「おいしく、健康にいい野菜・フルーツの再発見」です。 


 栄養学の世界には「PFCバランス」という言葉があります。三大栄養素の頭文字で、「P」はたんぱく質、「F」は脂肪、「C」は炭水化物です。

 この「三大栄養素」は、人が生きていくために必要な栄養素で、最低、これさえ食べていれば、とりあえず生きてはいけます。

 昭和35年の日本人のPFCバランスを見てみますと、炭水化物が多くて、脂肪分が少な
い食生活です。ご飯が多くて、おかずが少ない「日の丸弁当」のようなイメージですね。おかずがない分、ご飯をいっぱい食べてお腹を膨らませていた時代でした。

 昭和55年、日本は高度成長期を迎えます。PFCバランスは理想的な三角形を描くようになります。今、日本は長寿国といわれていますが、その原因としてこの時代に大人だった人がきちんとした食生活を送っていたからだと言われています。

 では、平成12年のPFCバランスを見てみましょう。脂肪分が極端に多くて、次にたんぱく質も多く、炭水化物が少ない。これは食の欧米化、ファーストフードなどの影響ではないかと思います。

 ファーストフード世代が親になってきて、きちんとした食事を家庭でしなくなっているんだと思います。そこで育った子どもたちが大人になった時、健康で、かつ長寿であるかどうか、ちょっと心配です。


 さて、野菜や果物には、生存に必要な栄養素はあまり含まれていません。
 
じゃあ、どんなものが含まれているのか。骨や血管を丈夫にして、免疫力を高めてくれるビタミンやカロテン。これはにんじんなどの緑黄色野菜に多く含まれています。 また、体内の不要物を外に吐き出す働きをするカリウムや食物繊維が含まれています。

 このように野菜や果物には、健康を維持するために必要な栄養素が沢山含まれているのですが、ここ20年ぐらいの間に日本人の食べ物はどんどん変わってきて、野菜と果物の摂取量が本当に減ってきているんですね。


 果物は1日200㌘必要だといわれています。でも、今の日本人はどの年代も200㌘を満たしていないんですよ。

 しいて言うなら、健康を気にし始める50代、60代、70代の人たちが比較的果物を食べてますが、一番食べなきゃいけないのは20代、30代、40代なんです。この人たちが一日あと20㌘、30㌘食べて欲しいんです。

 野菜もそうです。野菜は1日350㌘必要だといわれていますが、やはり50代、60代、70代、この世代はしっかり食べてます。15歳ぐらいまでもまぁまぁ食べています。これは学校給食に含まれているからです。やっぱり食べていないのが20代、30代、40代です。

 野菜の場合、白菜などの大型野菜の消費量が減っています。

 というのは、社会的背景として核家族化が進んでいるとか、女性の社会進出、共働きとかで、家庭で調理する機会が少なくなっていることがあると思います。だから、重くて、料理が面倒くさくて、食べきれない野菜は消費が伸びていません。

 逆に伸びているのはトマト、にんじん、レタスなど、サラダに使えるものです。サラダは切って盛るだけの簡単調理ということもあると思います。

 ただ、生野菜のサラダの場合、食べる量は少量です。加熱した方がたくさん量を食べることができるんですね。でも、やっぱり家族が少ないとか、料理を教えてくれるお年寄りがいなくて、調理方法を知らないと、野菜を段々使わなくなってしまいますよね。

 たとえば、白菜。半分使ったら、料理のレパートリーが少ないと、後の半分をどう使ったらいいのか分からない。

 私の友達もお鍋の時に長ネギを使うんですが、白い部分を使って、青い部分を平気で捨てちゃうんです。「だってこれ、ゴミでしょ?」って言うんです。セロリの葉っぱも平気で捨てちゃうんですね。

 ネギは油で炒めると香りがいいですよね。私のお薦めなんですが、ネギは油で炒めた後、セロリの葉っぱを入れて一緒に炒め、ごま油とお醤油とみりんで味付けして、じゃこの乾煎りしたのを加えてご飯に振り掛けて食べると大変香ばしくておいしい一品になります。

 こういう調理方法を知らないと捨てちゃうんですね。こういうところからも野菜の摂取量が減っているわけです。


 子どもの嫌いな食べ物の10品目中8品目が野菜だといわれています。子どもは、どうしてもピーマン、にんじん、セロリなどの、にがいものや、すっぱいものが苦手です。

 でも、皆さんも子どもの時はあまり食べなかったけど、大人になると味覚が変わっていつの間にか食べられるようになっていませんか。

 栄養価は高いですから、如何に食べさせるか、そのきっかけを作ることが大切だと思います。

 そのきっかけとして、ピーマンがなっているビニールハウスを一緒に見に行く。一緒に収穫する。

 切ったまま出すだけじゃなくて料理を一緒に手伝ってもらうのもいい。「ピーマンってこんな形してるんだよ」「中にこんな種が入っているんだよ」と教えてあげるのも好きになるきっかけになりますよ。

 私の周りにはグリーンピースの嫌いな人が結構多いんです。どうして嫌いなのかと聞いたら、「苦味が嫌い」とか「なんかシワが許せない」とか「味がまずい」とか、いろんな理由を言います。

 そうなんです。今、食の外部化が進んでいて、1年中、出回っているのは缶詰だったり、冷凍食品だったりします。それって新鮮な旬のものに比べたら味もよくありません。

 やっぱり旬のグリーンピースは、茹でて食べると口の中でぷちっとはじける感じとか、独特の甘みや食感が味わえます。ご飯とかサラダに入れてもおいしいです。

 そういう旬の食材を使っていろんな食べ方を工夫したら、子どもたちも興味を持って食べるようになるかもしれません。

 また、グリーンピースをさや付きから買ってきて一緒にむくところからお手伝いさせるのもいいかもしれませんね。

2009年11月06日 16:56


【バックナンバー一面】ヒトはみんな人間にならなくてはいけない

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【バックナンバー一面】2006年10月23日号
「ヒトはみな人間にならなくてはいけない」

(財)反差別・人権研究所みえ 主任研究員
松村智広


 今日は、「僕のプライバシーと引き換えに、皆さんの理解が欲しい」、そう思って心を裸にしてお話します。

 人権問題、同和問題と言った瞬間、硬くて、暗い雰囲気になりませんか? だから僕は、笑いで吹き飛ばすくらいのほとばしりが必要だと思っています。

 僕は、三重県内の被差別部落で生まれました。別に好き好んで「部落」に生まれたわけではなく、生まれたら、たまたま「部落」だったのです。

 母は体が弱く、僕を産んですぐ入院しました。6歳の時、母親は27歳でこの世を去りました。一度も「お母さん」と呼んだことがないし、母親の膝の温もりも知りません。母の笑顔も記憶にありません。

 子どもの頃、僕は授業参観が嫌いでした。母がいなかったので、ばあちゃんが代わりに来てくれました。皆から「ばあちゃんの子」と、からかわれました。

 ばあちゃんは、自転車にも乗れないし、バスも通ってないから、歩いて1時間かけて学校までやってきていました。そんなばあちゃんの気持ちも分らず、「帰れ! 何しに来たんや! お前が来るから、俺、みんなからバカにされるんや!」と、玄関のところで追い返していました。ばあちゃんは、肩の力を落としながら、とぼとぼ帰っていきました。

 「人間のすることやなかった」と、今は思います。ばあちゃんを心の中で殺していたのです。僕はまだ、「ヒト」から「人間」になっていませんでした。


 僕が部落問題と出会ったのは小学校1年生の時でした。

 学校でもらったプリントを家に持って帰りました。父もばあちゃんも、そのプリントをチラッと見て終わり。「大人というのは、一目見るだけでプリントの内容を理解できるんだ」と思っていました。

 ところが学校に行くと、「お前、また忘れ物したんか。昨日配った紙に、今日持ってくるものが書いてあったやろ。あの紙をお家の人に見せへんかったんか」と先生から怒られました。

 僕は見せていた。でも父もばあちゃんも何も言わなかった。実は、うちの父もばあちゃんも、字を読むことが出来なかったのです。部落差別によって文字を奪われていたのです。

 父は11年前、60歳の誕生日を待つようにして、肝臓がんで亡くなりました。一日一升、酒を飲んでいました。

父は、母と結婚する時、みんなから反対されました。「あんな体の弱い女と結婚したらすぐ死ぬで。やめとけ」って。でもよっぽど愛していたんでしょう、結婚しました。

 「お前を妊娠した時、『子どもを産める体やない。堕ろせ』と世間は言った。そやけどお前のおかん、『死んでもいい。この赤ちゃんの命を世に送り出したい』と言って、お前を産んだんや」と、父は言ってました。

 母は、僕を生んだ後、病院暮らし。そして亡くなりました。

 「新婚生活は束の間やった」、父は酒を飲むといつもそう言っていました。寂しさを紛らわすために飲んでいたのでしょう。

 酒に頼らざるを得えないほどの切ない、寂しい気持ち、今は痛いほど分かります。


 人間は、どんなに強がっていても、みんな弱い面を引きずりながら生きているんだと思います。

 皆さんの地域に、つっぱっている子、いませんか? 肩で風を切ってる兄ちゃん、いませんか? 彼らは、弱い面を隠そうと強がっているんです。「これ以上バカにされたくない!」という思いから、一生懸命自分で自分を守っているんです。「俺はここにいる。忘れんといてくれ」という表現の仕方が、彼らはちょっと下手なだけなんです。

 父にも再婚話がありました。でも僕は、「するんだったらせいや。でも俺はよそのおばちゃんに『お母さん』なんて言わん。もししたら、俺、学校で暴れたる」と、父を脅し続けていました。父は再婚することなく、60年の人生に幕を下ろしました。

父には再婚する自由も権利もあった。でも僕がそんな父の権利を踏みにじったのです。

 父が入院したのは4人部屋でした。「松村さん、あんた、どこですか?」と聞かれると、いつも父は隣の地区を言ってました。

 「病気や貧乏なら我慢できるけど、差別だけは我慢ならん。『あんた、どこの人?』と聞かれるたび、体に電気が走る。家で死なせてくれ」、そう言いながら父は死んでいきました。

 生きてる時は、堂々と自分が生まれた地区を名乗ることができなかった父でした。

 「これからはためらいなく自分の地区を名乗ってくれ」、僕はそんな気持ちで父の棺を墓場まで持っていきました。


 「最近の気になったニュースを、新聞から切り抜いて持って来い」、ある時、学校でこんな宿題が出されました。

 他の子たちは、昨日や今日の新聞を切り抜いて持ってきた。でも部落の子たちはみんな、「忘れました」と言って、先生から怒られ、立たされていました。

 本当は忘れたわけじゃない。部落の人たちは文字が読めなかったので、家で新聞を取っていなかったんです。子どもたちはそれを「親の恥だ」と思い、先生に言えなかったんです。

 僕は学校から帰って親を責めました。教室で立たされ、どつかれ、バカにされた数だけ、親に向かって、「お前ら、大人のクセに字も知らんのか!アホ! ボケ!」とののしりました。

 こんなこと、親に言うセリフですか。口が裂けても言っちゃいけない言葉を、僕は言っていたのです。


 僕は部落に生まれた。ということは、部落差別が一番よく見える位置にいて、差別をなくすことを使命としてこの世の中に生まれてきたようなものです。そんな僕が「差別の罠」にはまり、親を憎んで、故郷を恨んで、自分自身をも否定しながら生きてきた。

 僕は、差別をされてきた悔しさよりも、そういう「差別の罠」にはまって生きてきたことが悔しい。

 僕は、「被害者としての私」よりも「加害者としての私」を今でも引きずっています。

 僕自身も差別者だった。「人間」ではなかった。「人間」に戻っていくことが、僕の一生の目標です。まだまだ自分探しの旅の途中です。

2009年10月30日 14:30


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