水谷もりひとブログ

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つれづれなるままに~前編

ハローワークで見つけた「宮崎中央新聞社」に入社したのは27年前だった。
僕はもう35歳だった。生まれて初めての就職だった。

学生時代もいい加減だったし、卒業してからもやりたい仕事に出会えず、フリーターのようなことをしていたのだ。(当時は「フリーター」という言葉はなく、バブル経済真っ盛り)

そのうち弾みで結婚し、子どもができた。
「こりゃ真面目に働こう」とアルバイト生活をやめて、自分で「アルバイト情報誌」を発行した。なんとか月10万くらいには、なった。

しかし、1年後、2人目が生まれてからはさすがに「こりゃ真面目に働かなければ・・」と一念発起してハローワークに行った。
そして見つけたのが「宮崎中央新聞記者募集」の求人票だった。

手取りで18万円だという。そして実際に18万入りの給料袋を手にした時は感動した。
「こんなにもらえるんだぁ~」と。

大手の日刊紙の記者たちに交じりながら、県庁や県警に出入りし、そこでもらった催し物を取材していた。
いろんな人に会えるという点では面白かったが、記事の内容はすべて事後報告で、つまらなかった。

「こんな新聞を読んでいる人っているのかなぁ」と思いながら、取材し、記事を書いていた。

「もし僕に任せてもらえば、もっと面白い新聞にするのに・・・」と密かに思っていたが、他のスタッフの方々はあまりやる気のない人たちで、口には出せなかった。

ちなみに、当時の「宮崎中央新聞」には、1面を担当する僕と、2面を担当する70代のおじさんと、写植(当時はガシャンガシャンと活字を打って、それを切り貼りして台紙に貼り付けて、それを印刷していた)

1面は行政が主催する催し物を主催した記事を載せ、2面は事件や事故、すべて警察が発表した資料を写した記事だった。

そんなこんなで働いていたのだが、世の中、バブルが弾け、親会社の建設業も傾き始めた。
当時の社長は女性だった。亡き夫が始めた新聞をつぶしたくないということで、廃刊にはせず、僕に「あんた、これやらないか?」と持ちかけられた。

「やります、やります」と僕は即答した。(つづく)