濃かった、みやちゅうの「ミニミニ読者会」
昨日(4月16日)は第5回ミニミニ読者会が行われました。今、全国各地でみやちゅう読者会をやっていますが、
それに対して、地元宮崎の人たちとあまり交流していないことにハッと気づかさせられました。
でも、この24年間を支えてきた人たち、
基礎の基礎を作ってきたのは宮崎にいらっしゃる10年以上の読者さんです。
地元宮崎の人に感謝しようという趣旨で「ミニミニ読者会」を始めました。
場所はみやちゅうの会社です。
会議室も交流室(和室)も10人前後しか入らないので定員は12人です。
まずは宮崎市内。1000人くらいいらっしゃるので
毎月50人にハガキを出しています。
なぜか毎回申し込みが12人くらいになります。
不思議です。
昨日は11人中、10年以上の読者さんが8人もいました。
皆さん、「みやざき中央新聞で人生が変わった」とか「みやざき中央新聞に支えられてきた」という人ばかりでした。
吉永裕子さんは今年の3月で定年退職するまで小学校の先生をされていました。
13年前にみやざき中央新聞と出合いました。
学校に絵本を販売に来られていた「ほるぷ九州」という業者さんから紹介されたんだそうです。
みやざき中央新聞を読み続けていくうちに、考え方が前向き、ポジティブになり、
毎日の帰りの会では「今日は~がよかったね」と、必ずプラス言葉を使うことを心掛けてきたそうです。
子どもたちが「どうせ自分なんて」とか、自己肯定感の低い言葉を言うと、その子をほめちぎって、自己肯定感を高める言葉のシャワーを浴びせたそうです。
「そんな教師になれたのもみやざき中央新聞のおかげです」とおっしゃっていました。
長友多恵子さんは県庁の職員でした。
県庁では各部各課でみやざき中央新聞を取っている部署が多いです。
長友さんもみやざき中央新聞が回覧されていくと、隅々まで読んでいたそうです。
毎週楽しみだったそうです。
ところが、人事異動になり、新しい部署ではみやざき中央新聞を取ってなくて
「これは個人で取るしかない」と個人で取るようになって12年が経ち、今年の3月に定年まで10年を残してやりたいことがあるといって県庁を退職されたそうです。
佐山由紀さんは、今は40代のステキなお母さんですが、20代のとき、お母さんが読んでいたみやちゅうを見て、「何これ? すごい。私も取る」といって、取るようになりました。
ある日、何気なく見ていた「吉丸美枝子」という、美容に命を賭けてきた女性の記事を読んで衝撃を受け、すぐ会員になりました。今は吉丸さんが開発した美容法の仕事し、宮崎の責任者にまでなっています。
佐山さんは17年の購読歴です。佐山さんのお母さんは松田くるみが飛び込みで出会った勝田さんです。勝田さんが紹介した木村さんは、後にみやちゅうの社屋を購入するとき、力になってくれた宮崎太陽銀行の木村常務の奥さんです。木村さんがいなかったら今のみやちゅうの社屋はありません。
というか、松田くるみが勝田さんと飛び込みで出会わなかったら、今の社屋もないし、娘さんの人生も今とは全然違うものになっていたでしょうね。
渡辺綱纜さんは宮交シティの社長をされていた方です。宮崎の経済界を牽引してきた宮崎観光の父・岩切章太郎さんに長年仕えてこられました。
岩切章太郎さん没後は、岩切章太郎のイワキリイズムの語り部として講演活動をされています。
僕が渡辺さんと出会ったのは、1993年です。22年前です。岩切章太郎生誕100年を祝う会の記念講演会を取材したときです。
そのとき、初めて岩切章太郎さんの偉大さを知りました。
渡辺さんは中央大学の学生だったとき、「宮崎交通」に就職したいと思っていましたが、当時、「宮崎交通」は求人をしていませでした。それでも渡辺さんは履歴書だけでも岩切社長に渡したいと思っていました。
高校時代の校長だった野村健一郎先生(後の初代宮崎県教育長)に相談したら、「俺が持っていってやる」と言ってくれました。
そのおかげで渡辺さんは「宮崎交通」に就職できたのです。
渡辺さんは、その野村健一郎先生の奥さん、野村芳江先生からみやざき中央新聞を勧められました。
「会社で取っています」と言いましたら、「自宅で読まないとダメです」と言われ、野村先生には頭が上がりませんから「はい、分かりました」といって、購読を始め、今年で17年が経ちました。渡辺さんは今年84歳です。
余談ですが、昭和30年代後半、NHKのドラマを書くために宮崎に17日間滞在した文豪・川端康成に最初から最後までお世話役をされました。その時、川端が書いた小説『たまゆら』は昭和40年のNHK朝のドラで1年間放映されました。その3年後に川端はノーベル文学賞を受賞しました。
渡辺さんは宮崎県の歴史になくてはならない人です。
それから関屋健司さん。
関屋さんは、みやざき中央新聞の歴史の最初の頃に出てくる人です。
まだ松田くるみが飛び込み営業をやっていた時代に出会った人です。
当時、100軒飛び込んでも見本紙を受け取ってくれるのは3軒くらいでした。
ある事務所に飛び込んだとき、たまたま関屋さんが留守番をしていたそうです。
ちょうと定年退職して、友人の会社を手伝っていたのでした。
そこに松田くるみが飛び込んできたのです。
新聞を見て、関屋さん、一発で「いい新聞ですね。これは間違いない。取ります」と言ってくれたのです。
お付き合いとか、そんなんじゃないんです。
当時僕も30代だったし、社説だって未熟の極みでした。
それでも関屋さんにはものすごい先見性があったんですね。
昨日は、僕が40分ほど、500部しかなかったみやちゅうが世界に広がるまでの話をしたのですが、話を聞いた後、「やっぱり私には先見性があった」と自負されていました。
関屋さんの購読歴は21年です。今年82歳。バックナンバーも全部保管してあるそうです。
涙が出ました。
やっぱり宮崎の読者さんは濃いです。お一人お一人と今のみやちゅうと深いつながりを感じます。
これからは全国の読者さんともじっくりそんな絆をつくっていけたらと思います。