プロの感性
7月6日号の社説に書いた世界一の理容師・田中トシオさんの話をもう少しします。田中さんは「髪ing」という理髪店を経営しているのですが、世界一の田中さんの指名料は、なんと4万円くらいです。値段は正確ではありませんが、それくらいです。
でも、「田中トシオさん以外の人に俺の髪は触らせない」というお客さんが数多くいるそうです。元巨人軍の清原選手のそのお一人でした。
女優さんもいます。名前はおっしゃいませんでしたが、舞台やミュージカルを中心に活躍されているH・Aさん。『不思議な国のアリス』『秘密の花園』で主演をやったり、『椿姫』でも大活躍をされていた女優さんです。
ある日、H・Aさんが来店され、髪をカットしてもらいながら田中さんにこんな話をしたそうです。
夏休みの一か月間、東京ヤクルトホールでファミリー向けのミュージカルを上演していました。
チケットは前売りで完売していて、連日満席でした。
ところがある日、超大型台風が東京を直撃したのです。もちろん出演者もスタッフもホテルに泊まっていたので全員揃っていたのですが、お客さんが来ません。そりゃそうですよね。
その日の集客は数百人入るホールに親子連れなど総勢7人でした。
台風ですから仕方がありません。
主催者はスタッフに「非常事態ということで7人にお詫びして中止しましょう」と話しました。
出演者にもそのことが伝えられました。
出演者は「中止はやむを得ない」「観客が少ないとやる気にならない」という意見と、
「少なくてもせっかく来てくれたお客に済まない」「観客がかわいそう」「たとえ1人でも演(や)るのがプロでしょ」と、意見が分かれました。
最後に一番若いH・Aさんに意見が求められました。
彼女は「7人しかじゃなく、こんな日に7人も来てくれたんですよね」と話しました。
その一言で上演が決まりました。
幕が開きました。でもやっぱり人気のない広いホールです。
役者さんたちはどこか熱が入りません。
少しでも観客席を埋めようと、出番のない役者や空いているスタッフが観客席に座り、必死に盛り上げようとしました。
観客の7人は、はじめは黙って見ていましたが、徐々に「今日のステージは自分たち7人のためだけにやっている」と気付いたのか、瞬き一つも惜しむかのように真剣に観てくれるようになり、拍手も手が赤くなるほど叩いていました。
「自分たちも観客としての役目を果たさなければ・・・」という観客の思いがステージに役者さんにも伝わってきました。
後半から言いようのない熱気になっていきました。
どんどんテンションが上がっていくのが分かりました。
息づかいが、拍手が、何十人分にも聞こえました。
いつの間にか役者さんもスタッフも観客も、超満員のホールにいるかのような錯覚に陥るほどでした。
上演が終わり、主役の女優さんが出てきて、異例のあいさつをしました。
絶句して言葉が出てきません。「ありがとうございました」という言葉をやっとのことで絞り出しました。
そして、33人の出演者全員で出口に立ち、7人のお客様に頭を下げ、お礼を言って見送りました。
「役者と観客があんなに一つになったステージは一生忘れない」とH・Aさんは田中さんに語ったそうです。
「こんなに7人も来てくれた」という思える感性、この感性こそプロの感性ですね。