水谷もりひとブログ

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弱者の力

ある日の早朝のことです。

大場さんは一番信頼できる施設長の下村さんに「相談がある。二人だけで話がしたい」とささやきました。
下村さんは側にいたスタッフを部屋の外に出てもらい、大場さんと向き合いました。

ベッドに座った大場さんは小さな声でこう言いました。
「お腹にどうも赤ちゃんがおるごたる。産んでもよかろうか」

下村さんは「どうぞ産んでください。大場さんによく似て、色の白かよか赤ちゃんのできんしゃるでしょうね」と優しく微笑みました。

大場さんはなおも緊張した表情で言いました。
「産むのは産みきろうばってんが、私は育てきらんと思う。育てるのはあんたに手伝うてもらえんやろうかと思って、それば悩みよったったい」

下村さんは約束しました。「もちろんお手伝いします」

その言葉を聞いて安心したのか、大場さんはまた眠りについた。そのときの安らかな表情を下村さんは忘れることができないそうです。

福岡県にある「宅老所よりあい」の施設長・下村恵美子さんが書いた『98歳の妊娠』には、同施設で暮らしたり、通ったりしている認知症のお年寄りの物語が綴られています。

この施設のことを知ったのは、「第2宅老所よりあい」の村瀬孝生所長が、とある雑誌に連載しているエッセイのコピーの回覧でした。
あまりにも面白かったので、著者プロフィールを検索していたら、『98歳の妊娠』に辿り着いたというわけです。

村瀬さんのエッセイにこんな話があります。

「脳内活性リハビリをご存じだろうか。老人福祉の仕事を始めて20年になるが、この言葉が声高に叫ばれるようになったのは最近のことである」と。

 算数の簡単な計算が、認知症予防に効果があるといわれているそうです。
高度な専門性を要するものでのないので、介護現場では気軽に取り組むこともできます。
 
 「しかし、計算式を解くことで認知症が予防されるとは思わない」と村瀬さんは言います。すでに認知症をかかえているといわれる高齢者でさえも、計算のできる人はたくさんいるからだそうです。

 宅老所で暮らす96歳のトメさんもその一人。

 トメさんは自宅で留守番をしているとき、土間に落ち、病院へと運ばれました。腰椎の圧迫骨折の疑いで安静が求めら、そのまま入院となりました。

 オムツが嫌いなトメさんは、痛みをこらえてトイレに行こうとしました。その行為が危険であると判断した病院は、トメさんの安全を守るために、トメさんにオムツをし、両手足をベッドに縛りました。

 年相応の物忘れを抱えていたトメさんの様子はそこから激変したそうです。
 親族の顔がわからなくなる。昼夜の逆転が始まる。食事を受け付けない。典型的な認知症高齢者となったのです。

 「急激な環境変化、拘束による身体の抑制と社会からの隔離が脳に大きなダメージを与えた結果」と村瀬さんは言います。

 世の中にはそういう人を抱えた家族がたくさんいます。そして自分の親をそういう病院に任せられないと、自分の親を入れたい施設を探し、ない場合は、自分たちで作ります。
 そういう施設が全国にたくさんあります。
 「宅老所よりあい」もそうです。
 
 9月7日の社説に書いた軽い知的障がい者・多岐仁くんも親たちがお金を出し合ってつくった施設で暮らし、そして自立していきました。

 社会的強者の価値観で、弱者を何とかしようとすると、みんなが生きづらさを抱えてしまいます。

 健全な社会というのは、弱さを認め合い、助け合う社会です。
 障がい者や重病人のいる家族はそのことを実感しています。

 僕の奥さんの弟も、知的障がい者ですが、彼はずっと施設で暮らしています。
 やっぱり親たちがつくった施設です。

 なかったら自分たちでつくる。

 障がいや重病をかかえた子どもからもらった力です。
 彼らはとてつもないパワーをくれます。
 
 その社会をより健全な社会にしていくためには、
 いなくてはならない人たちなのです。