水谷もりひとブログ

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死に関する宗教的考察

宗教と宗教的考え方は違う。

宗教は宗教的考え方を持っているが、同時に組織をつくる。
それは大概ピラミッド組織である。
一番上に教祖がいて、その下に側近の幹部がいて、その下には上の人を支える人たちがいる。全国に支部があり、それぞれの責任は上が任命する。月に一度は本部で会議をするだろう。
それが組織である。

会社も官公庁もそうだし、宗教も例外ではない。

組織である以上、下っ端な人間が一番の上の人に簡単に会えないし、気軽に話をすることもかなわない。
すべての宗教がそうなっている。それは組織を形成しているからである。

それはいい。
別に批判することはない。

一方、宗教的考え方というのは、宗教という組織に属していなくても誰でも自由に持つことができる。
「死んだらあの世に行って、魂は永遠に生きる」とか。
「天国はちゃんとあって、生きているときに善なる行いをすれば天国に行ける」とか。

宗教的考え方には死に関することもが多いは、死はすべての生き物の宿命だからであろう。
安倍総理だってAKB48の女の子たちだって、僕だって、僕の子供たちだって、いつか死を迎える。

昔は死ぬとか、そういうことを口にすると年寄りから「縁起が悪いことは言うもんじゃない」と叱られた。
日本人は死を忌み嫌うところがある。
だから葬式のときは最大の悲しみを表すために真っ黒の服を着る。

お隣の韓国の葬式はみんな真っ白い民族衣装を着る。
よくよく調べてみると、日本人の喪服も昔は白だった。
「浄衣」といって、一番清潔で清い服を着て死者を送ったのである。

死はどんな人にも宿命的に訪れると言った。
しかし、心からあの世に送ってあげたい死と、悲しくて仕方ない死がある。
「逆縁」というやつだ。
いつか死ぬことはわかっているが、それが親よりも先に死ぬのか、後に死ぬのか、これだけはわからない。

当然、親よりも先に亡くなる逆縁はつらい。
悲しみの極致である。
黒の喪服で弔いたくなる。

しかし、親が80、90を過ぎて亡くなるのはある意味、「よく生きた」と褒めてあげるべきなのではないだろうか。
戦前をたくましく生きた。
戦中の動乱を懸命に生きた。
終戦直後の時代を必死に生き延びた。
子供たちを育て上げ、孫の面倒も見てくれた。
「ありがとう」と見送ってあげたい。
そういう葬式には「浄衣」で臨みたい。

僕にも、80を超える母がいるが、まだまだ元気である。
姑は90を超えたが、これまた元気だ。
しかし、永遠に生きるわけではない。
母のそのときがきたら、ぼくは葬儀場で喪主の挨拶をした後、やりたいことがある。
漫才三唱である。
参列者に起立してもらい、天に向かって万歳を三唱するのである。
「よく生きた」「いままでありがとう」「これから神様のところにいってらっしゃい」という気持ちを込めての三唱である。
もちろん幕は白と赤。
ネクタイは白である。

これは、宗教ではないが、宗教的信念に基づく考え方である。

もちろん、その前に母より先に死なないことが最重要ではあるが・・・・