はじめに死生観あり①
現在の日本人は「死生観」という哲学を失っているといわれています。たとえば、死についての話題が出ようものなら「縁起が悪い」と言われます。
「死」は人生の終わりであり、これ以上の悲劇はないと思われているのです。
だから避けたい話題の筆頭の挙げられるのです。
「死は縁起の悪いもの」
という考え方は、やがて「死ということを考えたくない」
という意識になり、やがて「死を考えない」
という風潮になり、そして「死を考えない」
という民族になりました。
そして、日本人は何のために生きるのか分からなくなりました。
「死生観が失われた最も大きな要因は、日本人が垂直の歴史観を見失ったことです」
(by 執行草舟)
「垂直の歴史観」とは民族固有の歴史観です。
歴史上の人物から「生きるとは?」「死ぬとは?」ということを学ばなくなったのです。
歴史上の人物の多くのは庶民ではありません。
大義に生きた人がほとんどです。
そういう人の死は、これまた壮絶であったりします。
歴史上の人物に学ぶということは、生き方から死に方まで学ぶということです。
「どう死んだのか」は「どう生き方のか」に通じます。
しかし、そのことを考えなくなってしまうと、どうなるのでしょうか。
残ったのは経済的利益の追求と、自分と自分の家族の幸せを求める生き方です。
戦後の教育はひたすら「いのちの大切さ」でした。
戦前・戦中にあれだけ徹底的に「死に方」を洗脳されたから、その反動でしょう。
しかし、いのちの大切さを教えれば教えるほど、
日本人は生き方が分からなくなりました。
いのちの使い方が分からなくなりました。
そして、自殺大国になり、子どもが「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と聞いてくるようになりました。
そもそも「いのち」というものは、
天から与えられたものであり、
授かったものであり、そして同時に「預かった」ものです。
自分のものであって、自分のものじゃない。
「いのち」は誰かの為に、何かの為に使ってこそ輝くもの、生きてくるもの、
そのようにプログラムされているのです。
だから、自分の為だけに生きようとすると、
そのようにプログラミングされていないので、
その人は心の底から幸せを感じないし、生きる意味も見いだせないのです。
人生とは、この世界にたった一つしかない自分の大切ないのちを
何のために使うのか、これを探し出す旅なのです。
(テキスト:執行草舟著『根源へ』)