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取材ノート 2658号(2016/08/01)
「オリンピック…ごめんね…」

中部特派員 山本孝弘
 先日実家に帰ったとき、昔使っていた部屋の片付けをしました。壁のビートルズのポスターはかなり色褪せていました。

 片付けの途中、高校生のときに買った『人間交差点』という漫画を見つけました。

 とても泥臭い人間模様が描かれた作品で、原作は矢島正雄氏、作画は本紙に講演が掲載されたこともある弘兼憲史氏です。

 その中の「あの日、川を渡って」という話を久々に読んでみました。当時感動して何度も読み返した話でしたが、いくつになっても良い話は涙腺が緩みます。

◎          ◎


 主人公は片田という若い刑事です。

 ある日、片田は母が危篤との連絡を受け、徹夜の張り込み捜査を終えて始発電車で実家へ急ぎます。

 「お母さん、帰るまで待っていてくれますよね」と、片田は心の中で祈りました。

 父の死後、女手一つで片田を育てた母。生活は貧しくても、いつも明るい笑顔を絶やしませんでした。そんな母が一度だけ悲しい顔をしたことがありました。

◎          ◎


 片田がまだ幼かったある日のこと。「東京オリンピックの入場券が安く手に入った」と、母が興奮気味に帰ってきました。

 「母はオリンピックが見られることを喜んでいるのではなく、僕に見せてやれることを喜んでいるのだ」と、片田は幼いながらも分かっていました。

 当日、貧しい2人は精一杯のおしゃれをして出かけました。父が死んで初めて電車に乗って川を渡り、東京に行きました。

 しかし、会場には入れませんでした。母が手に入れた入場券は偽物だったのです。

 帰りの電車では、母はずっと無言でした。

 肩を落とし、無力な自分を責めるような母の姿を見て、片田は母の手を握りしめてこう言いました。

 「今日はとても楽しかったよ。嘘じゃない。僕は本当に楽しかった」

 でも、母はいつものように笑いません。「母さん、おまえに何もしてやれなくて…」と、涙を浮かべて片田の手を握り返します。

 偽の入場券は2人にとって余りにも重い罪でした。片田が子ども心に「将来は刑事になろう」と思ったのはその時でした。

◎          ◎


 片田はなんとか臨終に間に合いました。息を引き取る前に、一度だけ母は意識を取り戻します。そして片田の手を取り、はっきりとこう言ったのです。

 「オリンピック・・・ごめんね・・・」

 片田は、「楽しいオリンピックでしたよ」と応えたかったのですが、涙で言葉になりません。母の手を握り返し、心の中で「ありがとう」と何度も繰り返しました。

 そして母はそのままそっと息を引き取りました。そんなお話です。

 昭和は遠くなり、4年後の2020年にまた東京でオリンピックが開催されます。

 世界中の人に「楽しいオリンピックでした」と言われるイベントになることを期待します。
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