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転載・過去・未来 2688号(2017/03/27)
その20 この体で生きていく~心を鬼にして僕を置いていった親~

山梨県障害者相談員 小林修
 僕は脳性まひで、体全体に障害があります。言語障害もあり、言葉がうまく発声できません。それが僕の一番悔しいことです。脳の運動神経を侵されているので右足が棒のように硬くなっていて、いつも力を入れた状態です。家では這って生活をしています。

 僕は、普通の小学校には行けませんでした。あけぼの学園という施設に入りました。山梨県で最初にできた障害者のための学校と病院が併設された施設です。

 「おまえが行ける学校ができたので見に行くか?」と言われ、両親と一緒に行きました。その時、なぜか母は大きなトランクを持っていきました。後で分かったのですが、その中には僕の着替えがたくさん入っていました。でも僕には内緒でした。

 午前中、施設を見て回りました。お昼時になり、案内してくれた先生が「修君もみんなと一緒に給食を食べるよ」と言いました。

 僕だけ食堂に案内されて給食を食べました。そのすきに両親は帰ってしまったのでした。

 その日から6年間、親元を離れてそこで生活することになりました。

 当時、僕はまだ服のボタンを1人で留めたり外したりすることができませんでした。

 置いていかれた次の日の朝、母が持ってきた大きなトランクを開けると、ボタンのない服ばかりが入っていました。父も母も「ここで6年間暮らすんだぞ」とはどうしても言えなかったんだろうと思います。

 自分の家から小学校に通うことができること、毎日親の顔を見ることができること、みんなそれを当たり前のように考えているかもしれませんが、それができない子もたくさんいるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 施設での6年間、自分の下着は自分で洗濯させられました。機能訓練の時間があり、横一列になって手で洗うのです。家に帰れるのは1年に一回だけ、それも3日間だけでした。せっかく機能訓練をしても、家に帰って手足を動かさないでいると、元に戻ってしまうからです。

 僕は今、基本的な生活はほぼ自分でできます。結婚もして、子どももいます。今の自分があるのは、あけぼの学園の6年間の機能訓練のおかげだと感謝しています。厳しい先生もいましたが、そういう先生方のおかげで今の僕があると思えるんですね。

 僕は、小学校の後半の3年間、「何にも掴まらずに、歩行器も使わず、自分の足で1㌔歩く」という目標を立てました。でも6年生になっても750㍍しか歩けませんでした。

 月に一回、面会がありました。僕はその日がすごく楽しみでした。僕には7歳年の離れた妹がいて、両親は妹を連れて面会に来ていました。よちよち歩きの妹を連れて親子3人で帰る後ろ姿を見ながら、僕は4年生くらいまで面会のたびに泣いていました。

 その時は親を恨みました。「どうして俺ばかりこんな目に遭わせるんだ。妹はいつも親と一緒にいるのに」と。

 僕には今、大学1年生の子どもがいます。今になって思うのですが、自分の子どもを施設に預け、月一回面会に来て、泣いている僕を置いて帰らなければならない両親はどんな気持ちだったろう、と。 

 でも、そういう子育てがあったからこそ、今の自分がいるんです。心を鬼にして僕を置いていった両親に今は本当に感謝しています。

 ニュースを見ていると、健康な体をもって生まれたのに、その体を悪いことに使って自分の人生を台無しにしている人がいます。せっかく不自由ない体で生まれてきたのだから、立派に生きてほしい、そう願わずにはいられません。

(2004年1月19日号より)


★このコーナーは過去26年のバックナンバーの中から選りすぐりの記事に加筆し、読み切りで転載しています。

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