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視点の移動で見えてくること

 子どもには子どもの気持ちがあり、大人がそれを理解するのはなかなか難しい。かつて子どもだったことを忘れて、大人の視線でしか物事を見ることができなくなっているということもあるだろうし、今の子どもは、我々大人とは違った環境や状況の中で育っていることもあるだろう。

 一方、親にも親の気持ちがある。だが、「親」という立場を通過したことのない子どもにとって、親の気持ちなど眼中にない。それは大人になり、子どもができ、自分が「親」になって、初めて分かる世界だ。

 職業でも、たとえば公務員の世界には、民間人にはちと理解できないルールや暗黙の掟があるようだ。多くの場合、自分の意見や考えよりも、組織の考えで動かなければならなかったり、個性を発揮するより協調性の方が断然求められたりする。

 教育界もそうだ。同じ公務員でも、子ども相手の仕事は何かと気を使うに違いない。ただ勉強を教えるだけではなく、一人ひとりの生徒の気持ちを読み取りながら、子どもの将来まで視野に入れて教育をしていく学校の大変さも、その学校を管理、監督する教育委員会の大変さも、外からでは分からないものである。

 最近、北海道滝川市の小学校で、6年生の女児がいじめを苦に自殺した問題で、教育委員会は自殺から1年が経過しているのに、いじめによる自殺であることをずっと認めてこなかった、ということが話題になった。少女が残した遺書のような手紙の中に「いじめ」という言葉が一言も書かれていなかったから、だそうだ。

 朝のテレビ番組で、司会のみのもんたさんが、感情をむき出しにして怒りまくり、それが全国ネットで放送された翌日、教育委員会は態度を急変させ、再度開いた記者会見で、「いじめによる自殺だった」と認めた。

 なぜ教育委員会は「いじめ」という事実を隠蔽し続けてきたのだろう。教育委員会の立場になってみないと分からない事情や心理があるのかもしれない。

 マスコミは被害者と加害者、弱者と強者を明確にさせ、正義の味方、弱者の味方の側に立てばいいが、教育委員会や学校は、常に公平・平等な立場に立っていなければならない。

 今回は、一人の命が失われ、マスコミの報道も激しかったので、結果的に教育委員会はいじめがあったことを認めたが、もし少女が卒業するまで苦しみに耐えていたら、学校や教育委員会の公平・平等な「立場」はどうだったのだろう。手紙にはいじめた子の実名が書かれていたと言うが…。

 普通、「無視された」「仲間外れにされた」と感じている子がいれば、そこには必ず「無視した」「仲間外れにした」子がいるはずだ。ところが、その関係においては、必ずしもそうとは言えない現実がある。「無視した」「仲間外れにした」人たちは、「無視された」「仲間外れにされた」人の気持ちが分からないし、分かろうという気持ちもない。だから、「今自分らはいじめをやっている」という自覚がない。自覚がないから、いじめそのものも彼らにとっては「存在しない」のだ。

 体育館に全校生徒を集めて、「差別やいじめはダメだ。いのちは尊い」と、1万回叫んでも、一向にそれがなくならないのは、「する側」に、差別をしている、いじめをしている自覚や認識がないからだ。

 所詮、立場の異なる人の気持ちや苦労など分からぬものだが、分かろうとするきっかけづくりはできないだろうか。

 元小学校教師の松田昭一さんが書いた『授業創造』(鉱脈社)の中に、こんな国語の授業が紹介されている。

 まず、「若者は、キジの羽にささった矢をぬいてやりました」という文章を読む。その文章から子どもたちは、心優しい若者の姿をイメージする。

 次に、その文章をひっくり返して読む。「キジは、若者から羽にささった矢をぬいてもらいました」。すると今度は、キジに視点が移る。羽に矢が刺さって痛そうなキジ。その矢を抜いてもらって喜んでいるキジ。自然と「キジさん、よかったね」という気持ちになる。この見事な視点移動の授業を、松田さんは小学1年でやっている。

 相手の立場になって物事を考える思いやりの心は、自分とは異なる世界に興味を持っている時期に育てるのがいい。その心が育たないと、自分がやっているいじめや差別に気がつかないし、公平・平等な立場にも立てないんじゃないか、と思う。