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取材ノート 2777号(2019/02/18)
稀勢の里、その奇跡の物語

中部特派員 山本孝弘
 横綱・稀勢の里が引退しました。あの左肩の負傷がずっと尾を引いていました。

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 今から2年前の3月、新横綱となった稀勢の里は春場所を迎えました。

 彼の大関時代、私は稀勢の里の勝負弱さにはいつもがっかりしていました。横綱に昇進したのは日本人横綱誕生を急いだ協会の勇み足ではないかとさえ感じていました。

 しかしそんな私の心配をよそに、稀勢の里は初日から12連勝。優勝争いのトップに立っていました。しかし13日目に日馬富士に寄り倒され、左肩を負傷してしまいます。痛がり方が尋常ではなかったので、翌日からの休場は確実視されていました。

 そんな中、彼は左肩に大きなテーピングをして強行出場したのです。現金なものでその姿を見て以来、私は稀勢の里のファンになりました。

 しかし使えない左腕が重荷になり、鶴竜に完敗を喫します。この時点で大関・照ノ富士がトップに立ちました。

 そして千秋楽、1敗差の照ノ富士との対戦です。勝てば優勝決定戦にもつれ込みます。しかし言い換えれば、照ノ富士に2連勝しなければ優勝はありません。

 左腕が使えない稀勢の里の劣勢は、誰の目にも明らかでした。

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 私はその千秋楽をたまたま病院の待合室で観ていました。娘を皮膚科に連れてきていたのです。

 そして「稀勢の里対照ノ富士」の結びの一番。稀勢の里は劣勢を撥ね退け、突き落としで勝ちました。待合室は大歓声です。あまりの盛り上がりに驚いた先生が診察室から出てきたほどでした。

 次はいよいよ優勝決定戦です。私はもはや、娘の名前が呼ばれても居留守を決め込むつもりでいました。

 「奇跡は2度も起きないだろうが、温かい目で見守ろう」。そんな空気が待合室に、そして日本中に流れていました。

 優勝をかけた一番。稀勢の里は照ノ富士に土俵際まで追い詰められます。しかし、なんとそこで「神の小手投げ」が決まったのです。片腕での奇跡的な勝利に、待合室はもう拍手喝さいの大騒ぎでした。 

 価値観が多様化した現代にあって、見ず知らずの人々が一つになっている光景に、私は不思議な感動を覚えました。

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 同時に、待合室の片隅ではまた別の奇跡が起こっていました。車椅子に座って応援していたおじいちゃんが、稀勢の里が小手投げを決めた瞬間、なんと興奮して立ち上がり、拍手をしていたのです。

 「立った…おじいさんが立った!」

 付き添いのおばあちゃんが口に手を当て唖然としています。

 「おじいさん、あんたクララか?」

 娘の名前が呼ばれ、私はそう思いながら診察室へ入っていきました。

(中部特派員/山本孝弘)
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