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転載・過去・未来 2756号(2018/09/03)
その86 夜間中学で学んだこと~落ちこぼれだけど「語りの文化」がある~

元公立夜間中学校教諭 松崎運之助
 井上さんという30代の男性が夜間中学校に入学してきました。映画『学校』では田中邦衛さんが演じています。

 みんな彼のことを「イノさん」と呼んでいました。「イノさん」はカタカナがすごく苦手で、カタカナの時間になると「頭が痛い」とか言い出すんです。「先生、俺、カタカナを見ると頭痛と吐き気とめまいがするんだよ」と言って、寝る態勢に入っちゃう。 

 ある日、休み時間に教室に行ったら人だかりができていて、その真ん中でイノさんが何やら大きな声で話していました。

 近寄ってみると、競馬新聞を広げて馬の解説をやっていたのです。みんなゲラゲラ笑ってました。

 その競馬新聞を見たら馬の名前がカタカナで書いてあるんですね。

 「あんた、この馬の名前は読めるの?」と聞いたら、「読めなきゃ商売にならんでしょう」と言うんです。

 「ちょっとその競馬新聞を僕に貸して」と言いました。イノさんは「どうぞどうぞ。先生、今度一緒に行こうや」とか言って喜んでいました。

 次の授業で僕が教室に入っていくと、「先生、今日は何やるの?」とイノさんが言うから、「カタカナの続きだよ」と言ったら、「あー、頭が痛い」と言って寝る態勢になりました。そこでコピーしてきた競馬新聞を配って、「今日はこの競馬新聞でカタカナの勉強をします。でも馬の名前は難しいよ」と言いました。そしたらイノさん、急に起き上がってきました。

 黒板に「あかねてんじょう」と書いて、「これをカタカナにできる人いますか?」と言ったら、「はーい、俺、俺」と言って、イノさんが前に出てきてさっと書くわけです。

 「すごいね」と褒めたら、イノさんが「先生、ちょっとだけ時間をくれ。俺はこの馬について一言、言いたいことがあるんだ」と言うんです。「じゃあ、ちょっとだけね」と言うと、彼は教壇に立ちました。

 「思い起こせばあれは霧雨煙る中山競馬場。前を行くのは〇〇〇、後ろに迫るのは〇〇〇…」と競馬の実況中継を始めたんです。

 「さぁこれから最後の直線コースだ」なんてイノさんが言うと、今競馬場で馬が走っている光景が目に浮かぶんです。「ワーッ」という歓声が聞こえるんです。みんな身を乗り出して聞いていました。

 話が終わると、「ま、こんなもんでしょう。先生、どんどん行こう」と言うんです。さっきまでカタカナをやると頭痛がすると言っていたのに全然態度が違うんですね。

 こんな調子で、馬の名前を黒板に書く度に、イノさんが前に出てきて馬の解説をするもんだから、その日はなかなか授業が進みませんでした(笑)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ただ彼は非常に話がうまい。話でみんなを惹きつける才能がある。言葉で見事に想像させるんですね。でもそういう才能があっても彼は社会の中では「落ちこぼれ」です。誰も相手にしてくれません。どういう人が評価されるかと言うと文字で表現できる人です。

 でも文字は表情がないじゃないですか。呼吸もしないし、テンポもない。元々言葉というのは「語りの文化」です。

 私たちは学校教育の中で『平家物語』や『源氏物語』を学んできましたが、それらは全て「物語」、つまり「語りもの」なのに、文字だけを読んで勉強してきませんでしたか。でも文字がなかった時代から「語り」はあったんですよ。

 「そういう語りの文化を持っているイノさんみたいな人が、どうして社会の落ちこぼれなんだ。素晴らしい文化の伝達者になれるのに」、僕は本当にそう思いました。

(2007年6月18日号より)


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