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転載・過去・未来 2811号(2019/11/04)
その137 いま命輝いて(前編)~庭に咲くユリの花が教えてくれた

熊本県いのちの懇親会代表(当時) 野尻千穂子
 私が足の異変に気付いたのは、小学6年生の秋の運動会の練習の時でした。

 近くの病院では原因が分からず、学校を休んで熊本市内の大学病院に行きました。

 レントゲン撮影の写真を見て先生が言いました。「脊髄に原因があるようです」と。

 そのあと先生は両親を呼び、とても難しい手術であることを告げました。母は「1%でも治る可能性があるなら」と手術を先生にお願いしました。

 術後の麻酔から目が覚めた私は足を動かそうとしました。でもどう動かせばいいのか分かりません。

 「先生は足を切ってしまいなはったとね?」と母に聞きました。

 母は急いで病室を出て先生を呼びに行きました。

 先生は、私の2本の足を私に見える高さまで持ち上げました。でも足はもちろん、胸から下の感覚もすべてありませんでした。

 私は当時12歳。この現実を受け止めきれず、ずっと泣き続けました。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~


 「どんな病院に入院しても私の足はもう二度と動くようにはならない」と気付き、私は先生に退院を申し出ました。

 退院の許可が出て、私は久しぶりに家に帰ることになりました。

 タクシーが家に着くと、父は私を抱いて座敷まで連れていってくれました。

 そこには、近所の人たちが退院祝いのごちそうを持ち寄って集まってくれていました。

 皆さん口々に、「千穂ちゃん、よう帰ってきたねぇ」「きつかったねぇ」と慰めてくれました。久しぶりに聞く阿蘇弁でした。

 私の目から涙がとめどなくあふれました。

 「歩けない体になった私をみんなこんなにも温かく迎え入れてくれるなんて…帰ってきて本当に良かった」と思いました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それからは家で寝たきりの生活が始まりました。

 13歳からの4年間、私はほとんど家から出ませんでした。「私は生きていてもいいのかな。迷惑をかけるだけじゃないかな」と、ずっと悩み続けました。

 死ぬことも考えました。でも両親が悲しむことを考えたら、死を選ぶことはできませんでした。

 父はいつも言いました。

 「障がいがあっても千穂子は俺の娘だ。俺たちのためだけでよかけん、心まっすぐな人間になって欲しか」

 「障がいは悪でも恥でもなか。胸を張って生きていけ」

 こんな言葉を胸に、私はこの体を恥と思わずにこれまで生きてくることができました。現在も「この障がいさえも私の個性」と胸を張って生きています。

 まだ生きるのがつらかった16歳のある日のこと、庭に白いユリの花が咲いているのを見つけました。

 「この花は去年もこの場所で咲いていた。そして去年と同じようにきれいに咲いている」と思いました。そして気が付きました。

 「この花は、誰かにほめられようとほめられまいと、人知れず今日咲くこの日に向けて頑張ってきた。人知れず毎日生きる努力を続けることが大事なんだなぁ」と。

 私はこのユリの花から、「与えられた場所でひたむきに生きる」ことの大切さを教えてもらったのです。

(1999年5月10日号、17日号より)


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