努力は裏切らない 2659号(2016/08/08)
その3 一人ひとりに向き合うことでチーム成績が上がっていった
女子ソフトボール元日本代表監督 宇津木妙子
【前回までのあらすじ】ユニチカに入社して13年目のとき、いよいよ宇津木さんはプレーヤーからの引退を決意する。その後「日立高崎」チームから監督の要請を受ける。監督を任された宇津木さんは、一人ひとりの選手のタイプを分析し、その個性に応じた指導方法を行っていく。私は、「チーム内の一人ひとりの選手に役割があり、みんなが一つの方向を向かなきゃ勝てない」と伝え、怠慢プレーや勝手なことをした選手に対しては厳しく叱りました。ですから「鬼監督」として有名になりました。
その代わり、選手たちのやる気や努力を裏切るようなことは決してしませんでした。
そうやって選手と向き合いながら一人ひとりを活かすことを考えていくうちに、3部リーグから2部リーグ、さらに1部へとチームは成績を上げていきました。
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そんな中、アトランタオリンピックでソフトボールが正式種目に入ることが決まりました。「これでソフトボールがメジャーになる」と私は夢を描きました。
なぜメジャーにしたかったか?
私がまだユニチカで選手としてプレーしていたとき、ソフトボールはバレーに比べ、練習環境や予算など全ての面で大きく劣っていました。それはメジャーかマイナーかの差でした。
ですから「オリンピックでメダルを獲れば、ソフトボールがみんなから評価され、認めてもらえる」と思ったのです。
私は全日本チームのコーチに選ばれ、アトランタオリンピックに参加しました。でも結果は4位という残念な成績でした。
しかし世界の舞台で戦う日本の選手たちを見ながら思いました。「次のシドニーオリンピックに向けて徹底的に練習すれば必ず勝てる。メダルを獲れる」と。
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翌97年、私が監督を務める「日立高崎」がすべての大会で優勝したことが評価され、今度はコーチではなく全日本チームの監督としての要請が来ました。
私は言いました。「それならば全権を私に任せてください。予算面から合宿、男子との練習試合まで。やるべきことをすべてやりたい」と。
その要望を受け入れていただき、私は監督をさせてもらえることになりました。
まずやったのは選手選びです。集まった99名の選手の中から22名を選びました。
ところが、その中の10名は「日立高崎」の選手でしたので、「勝手なことをして」とずいぶん叱られ、叩かれました。
しかし世界選手権で5位以内に入賞してシドニーオリンピックに行く切符をつかむために選んだ選手たちでしたので、その選考に私は自信を持っていました。
第1回合宿で私は選手たちに言いました。「スローガンは『心一つに。日本のために』。ソフトボール界のためにみんなの心を一つにしよう。私がすべて責任を待ち、防波堤になる。私のやり方に従えないのであれば、今すぐ帰っていい」と。
全員残ってくれました。言ってしまえばもうこっちのものですから、あとは楽でした(笑)。
その後は「日立高崎」でやったように、22名の個人カードを作り、このエリート軍団を一つのチームとしてまとめるための徹底練習を始めました。
エリート軍団だから何をやっても大丈夫で、根性もありました。
そして世界選手権で3位になり、日本チームのシドニーオリンピック出場が決定したのです。
(東三河法人会豊橋支部が開催した「市民講演会」より/山本孝弘・中部特派員取材)