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縁を生かす 2615号(2015/09/07)
その1 あなたが大人になったという事実は十分愛情をもらった証拠なのです。

作家 鈴木秀子
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 もう随分前のことなので記憶が曖昧ですが、私がアメリカのスタンフォード大学で教鞭を執っていたとき、同僚の友人から聞いたお話があります。

 スラム街で育った少年とその担任の先生のお話です。

 その女性の先生は、少年が4年生のときの担任でした。クラスの中でその少年だけどうしても好きになれませんでした。

 なぜならいつも汚い格好をしていて、授業中はいつも居眠りをしていたからです。何を言っても反応がないし、疲れ果てたような顔をしていたのです。

 ある日、「この子さえクラスからいなくなれば」と思いながら過去の学籍簿をめくってみました。

 1年生のときの学籍簿には「優秀で素直ないい子。この学校の誇りです」と書いてありました。

 先生は驚いて、今度は2年生のときの学籍簿を見てみました。

 そしたら「お母さんが病気になり毎日が大変らしい。それでもめげず、よく勉強しています」とありました。

 しかし、3年生の学籍簿には「母親死亡。父親がアルコール中毒になった」と書いてあったんですね。

 それを見て先生は、10歳の男の子がどんな毎日を過ごしているか、その背景など想像もしなかった自分の感受性の足りなさを思い知らされました。

 その日は、翌日から長期休暇に入るという日でした。

 先生は少年に言いました。

 「先生は休みの間、学校に来る日が多いから、もし家にいるのが大変だったらここに来て勉強する?」と。そしたら彼の目がぱっと輝いたというんです。

 少年は休みの間中、学校に出てきて、先生の机の横で勉強をしました。分からないところは先生から教えてもらいました。

 あるとき、少年がふと「今日は僕のお誕生日なんだ」と言ったんです。その子にとって心を開く最初の扉だったと思います。

 病気になったお母さんの面倒を一生懸命みていたのに、お母さんは死んでしまい、お父さんはアルコールに溺れている。

 「いじめられるよりも無視されるほうがつらい」といいますけど、そんな中で先生が声を掛けてくれて、少年は自分が先生に受け入れられたと思ったので、そんなことを言ったのでしょうね。

 夕方、先生は小さい花束とケーキを持って少年の家を訪ねました。汚れた暗い部屋に一人ぽつんと座っていた少年は、先生の姿を見て子どもらしい笑顔を見せました。

 しばらくして先生が帰ろうとしたら、少年は部屋の奥から小さいビンを持ってきました。

 「これ、先生にあげる」と言って差し出したビンは、ふちが蝋(ろう)で閉めてありました。

 先生はそれをもらって帰り、蓋を開けてみました。中は香水でした。お母さんが使っていた香水だったのです。きっと彼にとって唯一の宝物だったのだと思います。 

 先生は香水が逃げないようにまた蝋を垂らし、きちんと蓋をしました。

 学校が始まってからも、少年は勉強を続け、成績がどんどん伸びていきました。そしてその子が6年生になるとき、先生の転勤が決まりました。
 
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 しばらくして、先生はその少年に手紙を書きました。しかし、なかなか返事が来ませんでした。何となく気にはなりながら、もうその少年とは縁が切れたような気持ちでいました。

 そんなとき、一通の手紙が来ました。そこにはこう書かれてありました。

 「先生のおかげで高校に入学できました。奨学金をもらえたから、とてもいい高校に行くことができました」

 3年後、今度はカードが届きました。

 「父はまだ大変な状態ですが、父から離れて寄宿舎に入って高校を無事に卒業することができました。卒業後は○○大学の医学部に進みます」と書いてありました。

 先生は「もうこの子は大丈夫だ」と思いました。

 そして、10年近く月日が流れ、少年のことを忘れかけていた頃、一通のきれいな封書が届きました。それは結婚式の招待状でした。

 「先生のおかげで僕は医師になり、すてきな人と結婚することになりました。ぜひ結婚式に来てください」 

 先生は感動して、しばらく手紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くしました。

 結婚式の日、先生は大事にしまっていたあのビンを出してきて、蝋を切って蓋を開け、底のほうに少しだけ残っていた香水をつけました。

 式場へ行くと、立派な医師に成長したあの少年がハグをしてくれました。かつての少年の姿が先生の脳裏によみがえり、「よくぞここまで頑張ったね」と心の底から祝福の言葉を贈りました。

 彼は先生を抱きしめて、嬉しそうにこう言いました。

 「あぁ、お母さんのにおいだ」

 そして、「お母さんが生きてたら、お母さんに座ってもらう席でした」と言って、自分の隣の席に先生を座らせたそうです。

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 私は、本当につらい人とは、「自分は愛情をもらえなかった」という思い込みのある人だと思っています。

 「人生は5歳までで決まる」という言葉もあります。どんなに家庭環境が貧しくても、生まれてから5年の間に十分に愛情をもらうと、「生きるっていいことだな」という感覚を持てるのです。

 でも、子どものときにつらい生活やつらい体験をしていると、「生きることは苦しくてつらいんだな」と思い込んでしまうのです。

 それを取り去ることは難しいです。でも小さいときに愛情をもらわなかった人は一生そうかと言うと、絶対そんなことはないんですね。

 自分が小さいときに思い込んだことを引きずっているだけなのです。

 あなたが大人になったという事実は、十分愛情をもらっていた証なのです。それがたとえ母親でなくても、どこかで誰かが愛情を与えてくれたから、大人になることができたのです。 

 月刊誌『致知』の藤尾社長は「この少年もまた素晴らしかった」と言っていました。

 なぜなら、その先生との縁を忘れず、縁を育んできたからです。こんな感動のお話が生まれたのも、少年が、先生からいただいた縁を生かし続けたからだ、と。

 もしあの先生と出会えなかったら、彼は子どもの頃のつらい体験から「自分はダメな子だ」と思い込んで、本当につらい人生を送ったかもしれません。

 でも彼は先生との縁を自分の未来にしっかりつなげました。

 縁を生かす。これが人生、生きていく上でとても大切だと思います。

(照隅会が主催した講演会より~鈴木龍男特派員取材/文責編集部)


【すずき・ひでこ】東京大学人文科学研究科博士課程を修了後、フランスとイタリアに留学し、ハワイ大学やスタンフォード大学にて教鞭を執る。聖心女子大学教授を経て、国際コミュニオン学会名誉会長となる。日本にはじめてエニアグラム(性格タイプ診断テスト)を紹介。全国および海外からの要望に応えて、「人生の意味」を聴衆とともに考える講演会やワークショップで、さまざまな指導に当たっている。
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