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転載・過去・未来 2673号(2016/11/28)
その8 絆よ、永遠に~乳房をあらわにして私の前に立った母~

宮崎県教育委員会教育調整監(当時) 綾部正哉
 私は昭和16年旧満州国で生を受けました。昭和20年8月15日の時は数えで5歳でした。

 ちょうど終戦の1週間前、日ソ中立条約という「お互いに侵略しない」という二国間で交わされた条約が一方的に破られ、ソ連軍が満州に攻め込んできました。その最初の町が私の育った町でした。

 会社を経営していた父は真っ先にソ連軍に捕らえられ、後で聞いたのですが、シベリアに送られていました。

 取るものも取りあえず着の身着のままで母の腰にぶら下がるように私たち5人兄弟は満州の地を離れました。それから日本へ帰れるかどうか分からない当てのない逃避行が始まりました。日本人だと分かると、石を投げつけられ、人糞や尿をひっかけられ、物は盗られ、女だと分かると裸にされて犯される。大変な地獄絵図でした。そんな状況ですから、母は髪を男髪にし、男の服を着て逃げました。でもよく見れば女だと分かるのです。

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 ある日、肩に自動小銃を掛けた、2㍍もあるような赤ら顔の2人の大男が現れて母を捕まえ、両脇を抱えて連れていこうとしました。私は咄嗟にしゃがんで石ころを拾い、そのソ連兵に向かって投げました。運良く目に当たりました。

 怒った兵士は肩から銃を下ろし、安全ピンを外して今にも撃たんばかりに私に銃を向けました。

 その時、母はボタンがちぎれるほどの力で胸をはだけさせ、両方の乳房をあらわにして私の前に立ちふさがり、「私を撃ちなさい!」と叫んだのです。

 その声は今でも私の耳の奥に残っています。兵士は何かつぶやきながらその場を立ち去りました。母の勢いに負けたのでしょう。命懸けで私を守ってくれた母でした。

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 2か月くらい経った頃、私たちはどこか大きな建物の床下に寝ていました。目が覚めると人影がありません。たくさんの日本人が集団で移動していたのですが、その集団がいなくなっていたのです。

 5歳の私は、床下をごそごそと這い回りました。手に人の体が触れたので近づいてよく見ると3歳になる私の弟でした。急いで弟を起こし、訳が分からず泣き叫ぶ弟を引っ張りながら床下から出ました。

 ここから弟と2人の逃避行が始まりました。

 夜になると人家に忍び込んで鍋に残っているものを鷲掴みして食べました。道端に転がっている子どもの死体が、私たちよりいい服を着ていたり、いい靴を履いていたら、そこから剥ぎ取って弟と分けました。

 やがて冬がやってきました。満州の冬は零下35度です。一緒に逃げながらどれほどの月日が流れたか定かではありません。

 途中で弟は亡くなりました。私はたまたま出会った日本人の集団の後にくっついて釜山(プサン)まで辿り着き、そこから船に乗って下関に着き、さらに汽車に乗って、周りの大人の言葉を頼りに父親の実家のある宮崎の高鍋まで帰ってきたのです。私の胸に縫い付けられている住所を見て、要所要所で大人たちが「この汽車に乗れ」「ここで降りろ」と教えてくれたのです。

 高鍋の駅から私を家まで送ってくれたのはお巡りさんでした。両親と兄と姉は先に帰っていました。

 玄関に立った私を見た母は、へなへなと崩れ落ちました。そりゃそうでしょう。5歳の子が満州から1人で帰ってくるなんて考えてもいなかったのでしょうから。

 すでに私の墓はできていました。今でも駅裏の墓地の墓石に、私の戒名が刻まれています。

(1999年7月5日号より)


★このコーナーは過去25年のバックナンバーの中から選りすぐりの記事に加筆し、読み切りで転載しています。
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