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社説
おせっかいという愛で優しい国づくり

≪PDF版≫
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≪テキスト版≫
中部支局長 山本孝弘

 ACジャパンのこんなラジオCMがあった。二人の若い女性の会話である。

 女性A「昨日お土産に『親切な何かが入ったつづら』と、『おせっかいな何かが入ったつづら』のどっちがいいかって聞かれてん」

 女性B「おせっかいな何かは要らんな」

 女性A「でもな、親切なつもりでも相手にとっておせっかいということもあるやん」 

 女性B「あるなぁ!」

 女性A「つまりな、両方とも私にとってはおせっかいという可能性もあるやん。もう分からへんわと思って親切な何かをもらって来てん」

 女性B「ええ! 何やったん?」

 女性A「持ってきたから今から一緒に開けてみよか。ほないくで。せ~の!」

 ここでつづらが開けられる音が入り、中身を見た二人が言う。

 女性A「あぁ、おせっかいや…」

 女性B「私には親切やで!」

 親切とおせっかいは紙一重だということを示唆したCMだ。そして最後はナレーションのこんな言葉で締められていた。

 「親切とおせっかいの境目はあいまいで難しい。おせっかいかもしれませんが、これからも受け取ってくれる人を信じて!」 

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 私の母は人前に出るのが苦手で控えめな戦中生まれの女性である。それ故、積極的に他人に親切にすることはないのだが、目立たぬところでさりげなくおせっかいのようなことをしている姿を子どもの頃、よく目にしていた。

 たとえば、買い物に行った時に倒れている自転車を見つけると必ず起こしていた。可燃ごみの日に不燃ごみがごみ集積場に出されていると、「きっと間違えたんでしょ」と、そのごみを我が家に持ち帰って、庭の片隅に置いておいた。そして不燃ごみの日に出していた。

 あの頃、我が家では地元の地方紙を購読していたが、時々郵便受けに入れ忘れられることがあった。その度に母は販売店に電話をした。慌ててバイクで届けに来て平謝りする配達員に対し、母は配達員以上に頭を下げていた。

 小学生だったある夜、ドラゴンズが劇的な逆転勝ちをした。翌朝私は新聞を楽しみにしていたのだがまた届けられておらず、母にすぐ電話をしてくれるように頼んだ。

 だがその日の母は適当に頷くだけでなかなか電話をしてくれない。母に再度強くお願いしたらこう言われた。

 「今日は我慢しない? こんなどしゃ降りの日にまた届けに来てもらうのは申し訳ないよ」

 そういう考え方があることを知り私は驚いた。そして損得抜きに相手を思いやる母の気持ちに従い、私はその日の新聞を読むのを諦めた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~



 「一般社団法人おせっかい協会」という団体がある。会長は本紙に講演記事が掲載されたこともある高橋恵さんだ。

 おせっかい協会設立の趣旨はこうだ。「おせっかいは優しさの基本であると考え、おせっかいで助け合いの心を育み、見返りを求めない利他の精神に溢れかえる優しい国づくりを目指す」

 私は母と同い年の恵さんを私の地元・愛知県豊橋市に招き、講演会を主催したことがある。

 恵さんがおせっかいの大切さを知ったのは子どもの時だった。

 太平洋戦争開戦の翌年、1942年に三姉妹の次女として恵さんは生まれた。

 ある日、恵さんの家に一通の手紙が届いた。父親の戦死を知らせる手紙だった。母親は三人の幼子を抱きしめながら声を殺して泣いた。母親26歳、恵さん3歳の時だった。

 戦後、一家の大黒柱を失った家族の生活は苦しく、近所にも同様の事情で一家心中する家が何軒かあった。身も心も疲れ果てた恵さんの母親は娘たちに言った。

 「みんなでお父ちゃんに会いにいこうか…」

 ほどなくして玄関の戸に一通の手紙が挟まれていた。

 「あなたには三つの太陽があるじゃないですか。どうか死ぬことを考えずに生きてください」

 近所の誰かが、恵さんのお母さんの尋常でない様子を見て、何かを察してペンを走らせたのだろう。

 母親は三姉妹を抱きしめ、「ごめんね」と謝りながら泣き崩れた。

 生涯を神に捧げた、かのマザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言った。おせっかいの反対も無関心だ。ならばおせっかいは日本的な愛なのではないか。

 私もそんなおせっかいで、優しい国づくりに貢献しようと思う。あの母から譲り受けた血が騒ぐ。

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