水谷もりひとブログ

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母のラブレター

「ゆうべ私はあなたにbaiserした夢を見ました。前後はちっとも覚えていない。ただそのbaiserだけが現実の感覚をもって強く強くのこりました。私は私の唇をあなたの唇に強く押し付けた。あなたもそれをかへした。夢と現(うつつ)の間に私を不思議な興奮がとらへて、私のすっかりは醒めていない意識が涙に濡れてゐました」

これは、戦前・戦後を通じて活躍した昭和を代表する哲学者・谷川哲三が当時付き合っていた多喜子に宛てた手紙です。

「baiser」とは「ベーゼ」、つまり接吻のことです。

多喜子から返事が来ました。

「今すぐにでもあなたの所へとんで行けるのですけど、逢えば又さよならを云わなければならないし、今日一日あなたに逢わないで居るために何をしたらまぎれるでせうか。徹三さん、あなたと一緒に居たい。こんな心持を、いつまで満足せずに居られるでせう。私は胸が痛い程あなたに逢ひたい。ほんとうにどうすればいいのでせう。今日もほんとにむなしく暮れてしまいまひた」

このお二人は、詩人の谷川俊太郎のご両親です。
二人が独身時代にラブレターを交換していて、それが本になっているのです。
編集したのは息子の俊太郎ですから、すごいですね。

ご両親の死後、遺品を整理しているときに段ボールの中から見つかったのだそうです。

本のタイトルは『母の恋文-谷川徹三・多喜子の手紙』(新潮社・現在は新潮文庫)。
『父母の恋文』ではなく、俊太郎は『母の恋文』としました。

なぜか。

その理由を俊太郎はこうあとがきで書いています。

「私はあえて『母の恋文』という題名を選んだ。父は仕事一本槍の人間で、その書き物も多少は人に知られているが、母は父のかげに隠れて一生を終えた人である。だが、父に対する母の愛情は、父の母に対するそれよりもはるかに苦しみ多く、深いものだったのではないかと思う。父の一生はその著書や公的な活動を通してある程度たどることができるが、母の一生はこれらの手紙を通してしか人には窺(うかが)えぬだろう」

手紙は大正10年から大正13年に文通していたものです。
冒頭に紹介したのはもう後半の手紙です。
最後のほうになると、結婚を前提に手紙を交わしています。
「たき子さま」から「たきちゃん」に変わっています。

巻末には30年後に多喜子から徹三に宛てた手紙も公開しています。
それもすごいです。

徹三には愛人がいたんですね。

「私は淋しい室で一人床に入りましたが、あなたを想うあまり、胸が痛み、どうしても寝つかれません。ふと私はあなたに恋していることに気が付き、自分で自分がいやになりましたが、自分でどうしやうもありません」

「あなたの愛人との生活を私は邪魔したり、せめたりする資格はもう私にはないものと、できるだけあなたにつれなくして、あなたを自由にすることがいいと思ってゐました。私は馬鹿でした。ほんとうに馬鹿でした」

それから夫婦生活のことにも触れています。

「この頃あなたは私の所へ来て、要求されますが、不思議なことにあれほど一人であなたを想いながらいい気持になれるのに、痛さが先に来て、いい気持ちになれない始末です。ただ一度あなたがサックなしで入れて下さった時、私は、あなたとほんとうに一体になれたという気持ちと暖かく身内に入っていく物体を感じて、とてもいい気持になりました。前々から私はコンドームがいやで、何だかいつまでも他人の感じで、早く妊娠の心配がないやうになったらと思って楽しみにしてゐたのです」

何だか人間臭さもあっていいですね。

お母様はまさか夫に宛てたこんな手紙を息子が見つけて本にするなんて想像もしなかったでしょうね。
というか、公開しちゃいかんでしょうと思うのですが、俊太郎は最後にこう書いています。

「私的な手紙であるし、いくつかプライバシーにかかわる箇所もあるけれども、ひとつの時代を振り返るよすがにこれを出版してもいいのではないかと私は思った」と。

大正ロマンに浸れる一冊です。