94歳、弟の分まで生きたやなせさん
『お父さん、日本のことを教えて!』(自由国民社)の著者、赤塚高仁さんと飲んでいたら、アンパンマンのテーマソング『アンパンマンマーチ』の話になった。「あの歌詞には戦死した弟への思いがある」というのである。
知らなかった。赤塚さんと別れた後、「アンパンマン」の原作者・やなせたかしさんの著書を探して読んだ。
やなせさんは、5歳の時に父親を亡くし、その後、母親は再婚して家を出ていった。やなせさんと二つ下の弟の千尋さんは、伯父夫婦に育てられた。
大正生まれの二人が成人する頃が、ちょうど日本が戦争に突入していく時代だ。やなせさんに赤紙が来たのは22歳の時だった。暗号解読の部署に配属になったため、直接戦場で戦うことはなかった。
千尋さんは特別攻撃隊を志願した。小型特殊潜航艇、いわゆる「人間魚雷」である。任務地に向かう途中、フィリピン沖の海峡で敵の攻撃を受け、乗組員全員、輸送船と共に沈んだ。
やなせさんの詩集『おとうとものがたり』(フレーベル館)に、「シーソーというかなしい遊びがある」という出だしの詩がある。
小さい時、弟は病気がちで、学校の成績も悪かった。
兄は健康で成績はよかった。
弟は薬ばかり飲んでいて、いつもお菓子と玩具に囲まれていた。
兄は自分も病気になりたくてわざと雨にびしょぬれになったりしたが、平気だった。
しかし、中学生になったら逆転した。
弟は頑丈になり、柔道2段で優等生。
兄は柔道無段で劣等生……という内容である。
詩の最後はこうだ。
ぼくらは一方が上がれば一方が下がる
それでもぼくらは仲良しだった
シーソーをもう一度したいと思っても
ああ人生のギッコンバッタン
ひとりぼっちではできないんだ
戦後、やなせさんは漫画家としての道を歩み始めるが、仕事に恵まれず、雑誌記者や舞台美術など、頼まれたら何でもやった。
冬の寒い日、落ち込んだ時があった。
電気スタンドの灯りで暖を取った。
手のひらの血管が透けて見えた。
「悲しいのも苦しいのもつらいのも生きているからだ」と思えた。
言葉がどんどん降りてきた。
「電気スタンドでは味気ない」と、「太陽」に替えて、
「手のひらを太陽に透かしてみれば」という詩ができた。
ミュージカルの舞台美術の仕事をしていた時だった。
音楽を担当していた作曲家のいずみたくさんにその詩を見せると、
気に入ってくれて曲を付けてくれた。
こうして生まれた『手のひらを太陽に』は、
昭和44年、小学6年生の教科書に採用され、今日にいたる。
そうだ、うれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも
で始まる『アンパンマンマーチ』も生きていることへの賛歌そのものだ。
「何のために生まれて/何をして生きるのか」と続く歌詞に対して、
「これは幼児が歌う歌じゃない。難しい」といろんな人から散々言われた。
やなせさんは言う。
「僕は子ども向け大人向けと区別したことはない。
大人も子どもと一緒に見て、何かを感じてほしい」
昭和44年、初めて世に出た『アンパンマン』は、マントを翻して空を飛び、飢えた子どもにあんぱんを配る太ったおじさんだった。国境を越えたら、敵の戦闘機と間違えられて撃ち落とされるという悲しい結末だった。
太ったおじさんは、後にかわいい丸顔のアンパンマンになった。自分の顔を食べさせることに対して「残酷だ」という批判もあったが、「正義の味方が最初にやらないといけないのはひもじい人を助けること」「正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなきゃいけないんだ」という主張を貫いた。
「戦争中に一番堪えられなかったのは飢えだった」と言うやなせさん。
「子どもにとって一番大事なことは食べること。だから登場するキャラクターは全部食べ物なんだ」と。
そして歌詞は「愛と勇気だけが友だちさ」と続く。
なぜ「だけ」という言葉が出てくるのだろう。著書に記述はなかった。
憶測だが、やなせさんは、戦後もずっと大好きだった弟と共に生きていたのではないか。弟を含め戦争で散った人たちの胸中にあったのは、愛する人を守るんだという思いと、そのために戦う勇気、「愛と勇気だけ」だったのではないか。
10月13日は、やなせさん没後10年の命日。
2023年10日9日号の社説です。
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