水谷もりひとブログ

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『根源へ』

不思議なことに、ここ半年ばかり、目覚まし時計がなくても、朝4時に目が覚める。

もちろん毎日というわけではない。夜遅くまで飲んでいたときは、寝過ごす。
5時に目が覚めると「しまった! 遅くなった」という気持ちになるから不思議だ。
それだけ体に染みついた習慣というものは素晴らしいと思う。

こう思えるようになったのも、4時に起きてからの2時間ほどの学びの時間がいかに充実し、快適で、快感をもたらしてくれるものであるかということを実感しているからであろう。

今朝は執行草舟氏の『根源へ』を読んだ。
これはかなり難解な本で、書かれていることが実に深いのだ。

第二章まで読んだところで、「待てよ」と思った。
読んでいるときは「すごい」「素晴らしい」と思っているのに、自分の中に落とし込んでいないのだ。
だからもう一度第一章と二章を読みなおすことにした。

今度は一冊のノートに気になる文章を書き移すことにした。
今朝は三島由紀夫の死生観の箇所だった。

今まで大きな考え違いをしていた。
三島由紀夫は割腹自殺をしたと思いこんでいた。
この本の中で、三島由紀夫は自らの死生観で自決したと書かれていた。

死生観と自殺は全然異なるものだ。

死生観とは、人生に価値を付けるためのものなのだそうだ。
自分の命を最大限に生かすためにはもう死しか他に道がないという状況でのただ唯一の選択肢なのである。

それに対して自殺は逃げに他ならない。
自殺には、何の価値もない。

三島由紀夫の自決は日本国への憂いであり、それ自体によって日本国を問いなおす価値があった、と。

文芸評論家の桶谷秀昭氏は『昭和精神史 戦後篇』の中でこう書いている。
「三島由紀夫の死で昭和精神史が終わり、その後はのっぺりとした、荒涼とした風景が広がった」

三島由紀夫は、昭和45(1970)年7月7日の産経新聞に『果たし得ていない約束』を発表した。

「私の中の25年間を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。
私はほとんど『生きた』とはいえない」

「私が25年前に憎んだものは、戦後民主主義と、そこから生じる偽善。
こんな偽善と詐術はアメリカの占領と共に終わるだろうと考えていた。
おどろくべきことに、日本人は自ら進んでそれを自分の体質とすることを選んだのである。政治も経済も社会も、文化ですら」

「私はこれからの日本に、大して希望をつなぐことができない。
こんまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的な大国が極東の一角に残るであろう」

「それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

ここに三島由紀夫の死生観が表れてる。もう三島由紀夫が生きる道は、死しかなかった。
ここで死を選ばなかったら、三島由紀夫が死んでしまうのだ。

緒方拳がその三島由紀夫を演じている映画もかなりの迫力だ。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=Mishima%3A+A+Life+in+Four+Chapters'&aq=-1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

ここまで22ページ。なかなか前に進まない。
『根源へ』執行草舟著。