水谷もりひとブログ

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【朝礼】日本(ニッポン)人の素晴らしさ

先週、伊勢修養団に行ってきました。
素晴らしい講話あり、五十鈴川での禊ぎあり、いろんな人との出会いありで、
充実した2日間でした。

伊勢神宮に正式参拝をした後、修養団の寺岡先生がこんな話をされました。

2008年、ブラジルで移民100年を記念した式典がありました。
そうです。日本からブラジルに向けて781人の日本人が長い人生の第二の旅をスタートさせたのが1908年でした。

実は、その背景にはこんな歴史があったのです。
それまでブラジルは広大な農場を経営するために、アフリカから大量の奴隷を運んでいました。北アメリカと同様に、南米にもおびただしい数のアフリカの人たちが奴隷として働いていたのです。

しかし、奴隷制度への非難が国の内外から強くなり、ついに1888年に奴隷制度は廃止されました。結果、ブラジルの農場では労働力不足になりました。

そこで目を付けたのがイタリアでした。ブラジルは協定を結んで大量のイタリア移民を農場労働者として受け入れます。
ところが、イタリアの人たちは①マナーが悪すぎる②要求ばかりする③ちゃんと働かない、ということから農場経営者はイタリア移民を打ち切ることにしました。

次に目を付けたのが日本でした。
日本とブラジルは協定を結び、移民政策が始まりました。

1908年6月、サントス港にはたくさんの人が出迎えました。
781人の日本人は船を降りるとき、驚くべき行動を取りました。
みんな正装に着替えたのです。
そして、出迎えた人達に笑顔で、お辞儀をしながら船を降り立ったのです。

翌日に新聞にはこう書かれました。
「イタリアは貧民層を送り込み、日本は貴族を送ってきた」と。

その後、移民の日本人の苦労はいかばかりだったか想像を絶します。
逃げ出した人もいたでしょう。トラブルを起こした人もそりゃいたと思います。
しかし、20年経ち、40年経ち、日系2世、3世はどうなったか。

日系ブラジル人は、医師、弁護士、技師、地質学者、教員、芸術、文化、スポーツ等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと高く評されているそうです。(ウィキペディア参照)

また、まだ日系ブラジル人が全体の1%にも満たない時代に、ブラジルの最高学府サンパウロ大学の学生のうち、かつては約15%が日系ブラジル人で、教員の約8%が日系ブラジル人だったのです。

サンパウロ大学は2000年に初めて各学科の成績1位の卒業生を表彰しました。受賞者87人中、17人が日系人でした。サンパウロ州における日系人の比率は2%強にすぎないのにです。

2008年、移民100年を記念する式典に参列された美智子皇后は、翌年のお正月の歌会でこんな歌を読まれています。

「移民きみら辿りきたりし遠き道イペーの花はいくたび咲きし」

イペーとはブラジルに1年に1度咲く黄色い花です。
おそらく、サンパウロを訪問された美智子皇后が、道々に咲いている黄色い花を見て、お付きの人に訪ねたのではないでしょうか。
説明を受けた皇后は、この異国の黄色い話を毎年見ながら、長い年月を過ごした移民の苦労に思いを馳せたのしょうね。
それをお正月に歌会のときに思い出され、こんな歌を読まれたのではないかと思います。

移民きみら
辿りきたりし遠き道
イペーの花は
いくたび咲きし

涙が出ます。