水谷もりひとブログ

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新説? 「つまらないものですが」

ある勉強会で、こんな発言が出た。

「日本では、お世話になった人へ贈り物をするとき、『つまらないものですが』と言って手渡しますよね。自分が持ってきたものを下げることで相手を上げる、日本独特の謙譲語です。この言葉にはもっと深い意味があるそうです。それは、『このような物で私とあなたの距離は詰まらないかもしれませんが・・・・』という意味です」

「つまらないものですが」は、品物を贈る人と贈られる人との距離を、すこしでも詰めたいという思いがあるというのだ。

「へぇー、なるほど」と思った。

ところが、同席していたPさんが噛みついた。

「いやいやいやいや、それは誰かが後で意味づけしたものでしょう。
謙譲語としての意味のほうがより深い。本来の意味はあくまでも謙譲語だ。距離の『詰まらないもの』はこじつけだ」と。

僕なんかは「そういう解釈の仕方もあるのか」と思って、両方いいじゃないかと思うタイプなのだが、Pさんは妥協が嫌いな性格である。
「そういう考え方、解釈の仕方は間違っている」と譲らない。

そこで「つまらないものですが」について調べてみた。

「つまらないものですが」という意味は、一般的に謙譲語として知られている。

ところが、「実は皆さん、知らないと思いますが、これの本来の意味はこうなんです」と言われると、世間一般で知られていることより、後から聞いた世間一般で知られていないことのほうが真実に聞こえるから不思議なものである。

みんなそれに騙される。

たとえば、「坂本龍馬は幕末の英雄として知られていますが、実は幕府を転覆させようと目論んでいたイギリスの片棒を担がされたテロリストだったんです」と言われると、その新設が真実に聞こえてします。(実際、真実らしいです)

とにもかくにも新設にみんな「へぇー」と思ったいたところに
Pさんの「それは違う」という突っ込みはすごいと思った。

つまり、どっちが深いかというと、やっぱり謙譲語としての「つまらないものですが」の方が深い。

「あなたのような立派な人に差し上げるには取るに足らない物ですが~」と言って贈り物を渡すとき、主役は「相手」である。

ところが「これは私とあなたの距離を詰まらないかもしれませんが~」という意味になると、主役は「物」になってします。

マナーのことを書いたネットのサイトでは「つまらないものですが」の別の言い方が紹介されていた。

「~がお好きと聞きましたので」
「とても評判のいい〇〇ですので、召し上がっていただきたいと思いまして」
「ほんの気持ちばかりのものですが」
「心ばかりのものでございます」
「お気に召していただけると嬉しいのですが
「形ばかりのものですが」などなど。

確かにどれも失礼には当たらない。
しかしどれも主役は「物」だ。
「物」に焦点が当たっている。

「つまらないものですが」の本来の意味は、「あなたが立派すぎて」という意味である。
だから主役は「相手」なのだ。

相手を上げるために自分を下げる。自分を下げるために自分が持ってきたものを「つまらないもの」と表現する。この奥ゆかしさの感性が分からなくなると、「そんなつまらないものなら持ってくるな」と、欧米の感覚で突っ込みを入れる人が出てきて、だんだん「つまらないものですが」という言葉を使うことに躊躇する人が増えてきた。だから「別の言い方で」となっている。

残念だ。「謙譲語」という素晴らしい言葉の文化を持った民族がほかにあるだろうか。
欧米の感覚で解釈してはいけない。

で、「距離を詰まらせない」というものいいけど、あまり深さを感じないであります。