成長から「成熟」へ
人間、20歳までは「成長」という体の機能がある。誰しも20歳までは「成長」するのだ。
しかし、20歳を過ぎてからは肉体の「成長」はない。
20歳過ぎの人間に備わっているのは精神の「成熟」だ。
20歳を過ぎたら「成熟」に向かっていくのだ。
それをやめたら、ただただ「退化」あるのみ。
肉体はもちろん、精神も退化していく。
人間は時間と共に「退化」するのではない。
人間は精神の機能に背を向けることで退化していくのだ。
20歳を過ぎた人間の精神は無限の飛翔の可能性を秘めている。
とどのつまり、それは「問い」続けること。
自分を超えた超自我に「問い」続けること。
「神」と呼んでもいい、主護神と呼んでもいい、
その超自我に「問い」続ける。
訪れる様々な苦難の意味を。
「苦難」は自分の外側から訪れる。
20歳を過ぎた人間を「成熟」させるのは苦難しかない。
苦難を受け入れ、苦難の意味を理解し、歓迎するしかない。
嫌なことを避け、好きなことだけをやって生きる人生に何の意味も意味もない。
いや、人間は本能的にそのように生きたいを思っている。
だから避けられない苦難が訪れる。
最愛の人が死ぬとか。
金銭トラブルに巻き込まれるとか。
愛すべき人と歯車がうまく噛み合わないとか。
心身の不健康な状態に陥るとか。
「成熟」に向かっていく素材はある。
そして「老人」になる。
「老」とは、本来、「さまざまな経験を通して豊かな人格を身に付けた人」に
授けられる称号である。
昔「家老」とか「老中」と呼ばれた人は、最高位の人、
人間として優れた人のことだった。
「老いる」とは成熟していくことなのだ。
それ以外は、ただただ退化しているだけ。