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くるみの談話室 2831号(2020/04/13)
子どもたちの健康を守りたい一心で

取締役会長 松田くるみ
 今週号に掲載された齋藤正健先生(76)の講演は昨年秋に取材したお話です。

 齋藤先生と児童・生徒のような繋がりが、今の時代にも受け継がれていくことを願って、子どもたちと先生が新たに出会うこの時季に掲載しました。

 このコラムでは、齋藤先生の長い教員生活を語る上で絶対に外せないエピソードをご紹介します。

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 昭和41年、齋藤先生が宮崎大学を卒業して最初に赴任したのは宮崎県北部にある高千穂町立岩戸小学校でした。

 その小学校の校区に「土呂久地区」がありました。先生たちの間で、「土呂久地区から通う子どもたちは病弱な子が多い」ということが話題になっていて、「一体どういうことだろう」と心配していました。

 そこで齋藤先生は土呂久地区を一軒一軒回って聞き取り調査をしました。

 土呂久地区では、戦前は大正9年~昭和16年、戦後は昭和30年~昭和37年の間、猛毒の亜ヒ酸が製造されていました。戦前は毒ガスや農薬の原料のために、戦後は農薬等の原料にするためです。

 齋藤先生が赴任した時代にはもう亜ヒ酸の製造は中止されていましたが、先生は土呂久地区の子どもが病弱なのはこれと関係があるのではないかと思いました。休日、子ども達が遊ぶ広場には鉱山跡の捨て石が山のようにあり、猛毒に侵されていたような状況だったそうです。

 調査を始めた当初は「若造の先生が何言っとるか」「よそから来たもんに何がわかるか」などと言われながらも、子どもたちの健康を守りたい一心で被害調査を続けられました。昼間は教壇に立ち、夜はバイクで土呂久地区を回り、病状を聞き取っていきました。

 そして昭和46年11月、宮崎市で開かれた教育研究集会で、齋藤先生は土呂久地区の危険な環境と住民の健康被害の問題を発表しました。

 これがきっかけとなってマスコミが動き、土呂久地区の人たちのヒ素中毒が全国に知られるところとなりました。

 最初、環境庁は病状とヒ素との関係を認めませんでしたが、2年の歳月を経て、昭和48年にようやく国は土呂久の慢性ヒ素中毒を公害病に認定し、救済の手が差し伸べられることになりました。現在では自然豊かな環境に戻っています。

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 定年退職後からこの3月まで齋藤先生は教育相談員をされていました。普段はおだやかな笑顔の先生ですが、子どもたちのために「時代」と闘った若かりし頃の先生を思うと、胸が熱くなり、講演会では聞けなかったエピソードを書かせていただきました。

(取締役会長/松田くるみ)



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